原宿

『原宿。原宿。お降りの際、足もとにお気を付け下さい』
 有名なピアニストの演奏を聴いて以来、駿河は街中から音楽が溢れんばかりに聴こえてくる錯覚に陥った。なるほど、知覚過敏か、とはじめは特に気に留めなかったが、段々うるさくて仕方なくなってきた。駿河は静かであろう神宮の方に向かったが、木の下でもやはりピアノの音が聞こえてくるのでうんざりした。人だかりが出来ていたのでそこにいたくたびれたつなぎ姿のおじさんに聞くと、
「なんでぇ、えれぇ作曲家さんが、今そこで作曲しているらしい」
 と言うので背伸びして見てみたら、なるほど、森の中の砂利の上、二の鳥居の手前にグランドピアノがあり、一人の長髪の西欧人が毛筆で五線譜なる紙に書き込んでは音を並べる作業をしているので、駿河はぷっと吹き出した。
「それはないでしょう」
 と言うも、おじさんは駿河の声に耳を傾けず、真剣に「おおっ、ええなぁ」などいいながらひょこひょこと群衆の一番後ろの列で見物しているのでばからしくなって踵を返した。
 すると、表参道の並木の下にも人だかりが出来ている。駿河は聞こえてくるピアノの音にやれやれしながら、人が作った円からはみ出たところから中心に神経を送る茶髪で線の細くてTシャツにハーフパンツの女性に「何ですかね」と声をかけると、
「えっ、急に何」
 と言って彼女は嫌悪を表出してその場から去った。駿河は確かにな、と思いながら、ビルの中に入ると、エレベータにアップライトピアノがあって、後からのってきた若者がうんうん言いながら弾き始め、スマートフォンに何かを記していく、まさに作曲をしている風だ。彼は短髪で、目は細かった。白いシャツにジーンズパンツだった。駿河はもう何も思わず、五階の行きつけの喫茶店に入ると、おもちゃのピアノの前におしゃぶりを銜えた赤子が座っていた。ぶくぶくに膨れた、彫刻の荒い初期段階のような指で白鍵を弾くと、横にあった墨の入ったバケツに指を突っ込み、五線譜に何かを書き付けてはまた弾くのでおもちゃのピアノはどんどん黒くなっていった。気にせず、マスターにブレンドコーヒーを頼み、こぽこぽというコーヒーを濾す音に耳を傾けた。マスターは「温かいうちに」と言って差し出し、駿河は冷ます前に半分飲んで惰眠に落ちた。
 起きるとコーヒーは冷めていて、全部飲んで会計を済ませ、茶店を退出し、また神社に向かった。人並みはまばらで、夕日が所々巨木の合間を縫って差し込んでいる。暖色に満ちた優しい世界を感じながら歩いた。時代を超えて変わらない風景というのは良いという。過去を作った、想像できない幾多の人間が同じものを見ていたと思うと、自分も人間という大きな得体の知れない集団の一部に入り込んでいる気が駿河に起こるからだ。手水舎で手を洗おうとすると、水こそ出ていたが、ピアノだった。深く気にも留めずみそぎ、本殿に立ち入ると、駿河はまた優しい気分に包まれた。
 多くの人が、信じることによって生まれる神様を信じると、自分も得体の知れない人間という集団に加われた気がして、自我が亡くなり去っても、大丈夫なんだろうなぁ、と瞳を閉じて自分なりの神様を想像しようとしたが、神々しい光のせいで、表情が描けなかった。しめ縄の下に行き、賽銭箱の前に来ると、確かにお金は入るが、やはりピアノだった。駿河は観念して小銭が箱の中に落ちていく音に耳を澄ませ目を閉じた。
「もっと人間になれますように」
 懐からボールペンを取りだしてピアノの横に置かれた五線譜に音符を書いた。帰りに駅まで歩くと、よく見たら無地のキャンバスや、粘土の塊や炉が、ピアノがそこここにあって、人だかりが出来ていた。駿河は、もう少し時間がかかるなぁと思い、地下に降りた。

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