伊丹十三映画4Kを観る⑦ 『大病人』はなぜ不入りだったのか?
第8作目にして、伊丹監督はふたたびシビアな現実にぶち当たります。興行収入の自己最高を記録した前作の半分にも到達しませんでした。それが『大病人』です。
グルメ、税金、バブル期の土地問題、暴対法と、時代のテーマを切り取ってきた伊丹監督は、終末医療の問題に注目しました。
当時、医療技術の発達により、延命治療が盛んに行われるようになっていましたが、患者本人の意思に関わらず、生命活動を技術的に維持していく医療に疑問の声が広がり、安楽死・尊厳死などの議論も活発になっていました。(日本における尊厳死の問題化は70年代からありました)
ここで、『大病人』の作品理解を深めるために、ぼくの身近なエピソードをお話ししたいと思います。
『大病人』のエンドロールには、「資料」として庭瀬康二氏の著作「ガン病棟のカルテ」がクレジットされています。
庭瀬氏(2002年没)は、独特の医療理念を持つ医師で、ぼくは氏のもとでアルバイトとして働き、医療を超えたさまざまな活動を共にして、人生観を大きく変えられた恩師です。
庭瀬氏は、大病院での医療に大きな疑問を持っていました。目覚ましい進化を遂げる医療が、人間の存在、幸福というものを置き去りにしているのではないか。来たる高齢化社会に向けて、それは喫緊のテーマであると。
その庭瀬氏が、1980年代初頭、寺山修司氏の担当医となったときの出来事です。寺山氏の盟友であり、庭瀬氏の従兄にあたる谷川俊太郎氏による引き合わせでした。
そのときすでに寺山氏は、重度の肝硬変によって生命の危機にあり、舞台演出という激務などとうてい無茶で、絶対安静を必要としていました。しかし寺山氏は、念願のパリ公演をどうしても実現したい。寺山氏と何度も話し合った庭瀬氏は、「演出家でない寺山は、生きているとは言えない」と判断し、「擬似入院」という奇策を講じます。秘書を看護師に見立てて、仕事現場に入院と同じような環境を作ったのです。
そして寺山氏は、パリ公演を成し遂げます。
しかし翌1983年、病状が悪化し、死去しました。
当時、医療界が延命治療の精鋭化を突き進む中、その医療方法は物議を醸しました。
ところが、終末医療の議論が高まるにつれ、評価は反転していきます。そのプロセスと再評価は、テレビ朝日『驚きももの木20世紀』で、「墓場まで何マイル?寺山修司最期の2年間」(1999年)として放映されたりもしました。
『大病人』でも、向井武平が延命治療を断わり、最後の仕事をやり切ってから死にます。この映画を最初に観たとき、あまりにも寺山氏の最期と似ていたので、伊丹監督のメッセージはとても理解出来ました。
武平は、煩悶の末に「命を縮めても、生きた時間を過ごす」という答を導き、この世の一切は空(くう)であることを説く般若心経を指揮し、最期を看取る人たちを和ませながら、穏やかに死んでいきます。
ちなみに、臨終直後に表示される「0」は、武平の余命日数であると同時に、インド数学で0と同じ語源を持つ空をも表わしていると考えられます。
そんな『大病人』は、どうして興行収入がいまひとつ奮わなかったのでしょうか。
『大病人』は、もともと『大病院』というタイトルでしたが、『ミンボーの女』公開直後に起きた伊丹監督への襲撃事件をきっかけに、死生観を反映した『大病人』になりました。
医療問題、特に終末医療というテーマを扱う際、死生観を抜きには語れませんから、企画変更というよりは、企画の深化と言った方がいいでしょう。そしてそれは、誰しもにとって身に降りかかる可能性のある、極めて身近なテーマです。
でも、観客の反応は鈍かった。
同年には、話題の書籍『病院で死ぬということ』が市川準によって映画化されていますから、医療問題とそれに伴う死生観というテーマに一定の時代性があったことは間違いないでしょう。この映画の興収は分かりませんが、あれだけ一世を風靡した『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(1989年)も10億を切っていますから、そもそも死の問題を映画館に行ってまで観たいという人の絶対数が少ないのでしょうか。
また伊丹映画としては、〈女シリーズ〉ではなかったことも響いているかもしれません。世の中、映画を監督で追う人ばかりではありません「〈女シリーズ〉なら見たい」というような傾向は、どんな作家の作品でもよくある話です。
伊丹監督もそう分析したかは分かりませんが、以降、特例的な『静かな生活』以外の2作は、いずれも〈女シリーズ〉となっています。
それともう一つ、『大病人』の客足を遠のかせてしまった可能性がある“犯人候補”があります。
この映画の特報です。
特報第一弾は、伊丹監督自身が病室の患者に扮したワンカットものです。監督自らがブラックユーモアで自作を宣伝するというヒッチコック・スタイル。これはまあ、いいとしましょう。
問題は第二弾です。
実際の手術映像を織り交ぜ、病室を事件現場、抗がん剤点滴容器を凶器に見立てる語りは、ほとんどスリラーかホラーのようです。そして最後はダメ押しに、メインタイトルに女性の絶叫が被さります。
かつて、同じく病院を舞台にした野村芳太郎監督の『震える舌』が、予告編でホラー映画のような印象を与え、大コケしたという痛い前例があります。破傷風と戦う家族の物語なのに、破傷風という単語は一切使わず、見るからに悲痛なカットばかりを繋いで「少女に悪魔が棲みついた」「新しい恐怖映画!」というコピーを畳み掛けるという、ほとんど嫌がらせのような、絶対楽しくなさそうな予告編なのです。
ひょっとすると伊丹監督の宣伝戦略も、それと同じミスをしてしまったのかもしれません。
しかし、2000年代以降、医療ドラマが高視聴率を取る時代がやって来ます。撮影機材の進化もあり、実際の病院や手術場面の撮影は格段にやり易くなりましたが、1993年の段階で病院ドラマに果敢に取り組んだ伊丹監督の野心には、あらためて敬意を評したいと思います。
・・・さて。
作品背景の話が長くなりました。
ここで映画の内容を見てみることにしましょう。
今回の主人公=大病人は、三国連太郎演じる向井武平です。俳優兼映画監督で妻が宮本信子・・・と言えば、武平が伊丹十三の分身であることは疑いようもありません。ガン宣告を受けて右往左往する分身を、監督自身が物語として導いていくという、なんとも奇妙な構図です。
『大病人』には、武平が監督・主演する劇中劇が登場しますが、そこでもまた、武平が武平を演出しています。二層どころか三層構造になっているわけです。
なぜ、そうしたメタ構造にしたのでしょうか。
武平は、現役バリバリの男でなくてはなりませんから、何か仕事をしている必要があります。デスクワークの会社員では地味、というか、三国連太郎ではビジネスマンには見えませんね。かと言って地上げ屋というわけにもいかない(笑)。そこは伊丹監督の分身でもありますから、やはり映画界というのが妥当でしょう。どこかのオフィスを舞台にするより、撮影現場の方がリーズナブルという利点も考えられます。
もちろん、劇中劇というアイディアが先にあった可能性もあります。
いずれにせよ、劇中劇にはどんな仕掛けが施されているのでしょうか。
まず、劇中劇の男は、映画の中の現実と同じ三国連太郎です。男がガン患者であること、愛する女性が高瀬春奈であることも同じです。あまりにも現実と劇中劇が酷似した設定なので、観ている方はやや混乱します。混乱のいちばんの要因は、女性もまたガンに侵され、先に死んでいくという設定です。
それだけでは何を意味しているか分からないので、二人が交わす会話をつぶさに見てみます。すると、現実場面に通ずるいくつかの要素が込められていることに気づきます。
先にガンが進行した女は、症状の苦痛から、男に「殺して欲しい」と頼みます。
男は女の首を絞めようとしますが、
「おまえを殺すなんて、ぼくには出来ない」
と抱きつきます。これに似たシチュエーションが、現実シーンにも登場します。ただし「出来ない」と言うのは武平ではなく、緒方医師です。武平に「もう治さなくていい」と延命治療の停止を求められた緒方は、「治す方は信念持ってるけど、死なすのは・・・」と判断を躊躇します。劇中劇で同じ立場を演じた武平は、そのときの緒方の心境を理解したでしょう。これは、武平と緒方のバディ物の描写としても、心を通じ合う重要な場面です。
さらに武平は、緒方を両手で抱えながら言います。
「死なすと考えるなよ。死ぬまでこのジジイをいちばん良く生かすと考えろ」
「ここから先は俺の生き方の問題だ。君らにとって死は敗北なんだろ? 俺は自分の死を敗北と思いたくないんだ。やりたいことをやったあとの安らかなエンディングと思いたいよ」
ここは『大病人』の中で、死生観、終末医療についてのメッセージを、最も強く打ち出した場面です。
これは、劇中劇の女が、身体に装着された管を全て外して「スッキリした」と安堵した場面に通じます。
つまり武平は、悪戦苦闘の末に生命の終末についての哲学に行き着きますが、その答えはすでに自分の映画の中で描いていた、知っていたのです。
一方、緒方も、武平に「お前が俺の立場だったらどうする?」という問いを突きつけられ、一瞬ためらいながらも、こう答えます。
「やっぱり延命的な治療は断わるだろうね」
医師である緒方も、ひとりの人間としては、過度な延命治療を望んではいないのです。
緒方のセリフには、さらに細かい含みがあります。治療をやめる方法は「習ってない」という部分です。そこには、近代医療技術が人命を延ばすことのみに進化を遂げた中で、人間そのものを見失っているという含意が見て取れます。
前述の庭瀬康二氏は、それを「メスの崩壊」と表現しています。そして、
「かつてメスは、人を苦しみから解放する輝かしい剣だった。しかし、医療技術の進化とともに、人を幸せにしないドス黒いメスも現われた」
と苦言し、自身の医師としての目標を「患者との信頼関係に基づく医療」と語っています。
『大病人』は、まさにそういう映画です。
劇中劇でさらに注目したいのは「ラストダンスは私に」です。
これは、武平と万里子(宮本信子)が新婚時代に毎日歌っていた歌です。しかし、武平の目に余る女癖によって、夫婦は離婚寸前になっています。今、武平と万里子がこの曲を口ずさむことはありません。しかし、クライマックスに向けて、この曲を観客に聴かせておく必要があります。そこで、劇中劇を使って曲を流しておく。
後半には、そのことを万里子が知る場面があります。「ラストダンス」が夫婦にとってどんな意味を持つか知っている万里子は、武平の心の内を感じたことでしょう。その直後、彩を病室に連れ込んだことがバレて、武平を平手打ちするのですが(笑)。
歌詞の内容も重要です。何の気なしに観ていると聴き逃してしまうのですが、かなり映画の内容に即した歌詞です。
貴方の好きな人と踊ってらしていいわ
やさしい微笑みも その人におあげなさい
けれども 私がここにいることだけ
どうぞ忘れないで
(中略)
ハートだけはとられないで
そして私のため 残しておいてね
最後の踊りだけは
(中略)
いつか二人で
誰も来ないところへ 旅に出るのよ
そして、死に際の武平が万里子に囁きます。
「ラストダンス、とっておいたろ?」
頷く万里子。
「先に行って待ってるから」
これは、女関係でさんざん妻を困らせた武平が、結局は万里子だけを愛し続けていた、と受け取れる流れですが、果たしてそれだけでしょうか?
前述したように、武平は伊丹十三の分身です。ということは、万里子は宮本信子の分身である可能性が高い。いや、分身というレベルではありません。
万里子の人物像は、かなり不明です。「見ただけでその人の人生が分かる」ことをキャスティングや人物造形のモットーにしている伊丹演出にしては、万里子がどんな人物なのかが判然としません。「自宅にピアノが2台置いてあり、ピアノの講師で生計を立てているという設定」とメイキングで解説されていますが、言われないと気づかないレベルです。
詳細設定が無いということは、この場合、万里子は限りなく宮本信子本人なのではないでしょうか。
メイキングでの衣装合わせにおいても、そんな気配のする場面があります。衣装担当が用意した服がどれもこれもピンと来ず、監督はこう提案します。
「自前を着てみるのが、いちばんいいんじゃないかと思うんだよ」
衣装にも並々ならぬこだわりを発揮する伊丹監督が、そんなこと言いますかね? これはもう、万里子がほとんど宮本信子であることを、監督が思わず漏らしてしまった瞬間であると、ぼくは睨んでいます。
つまり『大病人』は、武平(伊丹の分身)の死生観、武平と緒方(盟友津川雅彦)のバディ物という立て付けに紛れて、宮本信子への愛のメッセージを添えたのではないでしょうか。
・・・さて。
そうした憶測はともかく、堅苦しい話はこれくらいにして、娯楽映画としての『大病人』の見どころをおさらいしてみましょう。
『ミンボーの女』の項で、ヤクザの民事介入暴力の話に明るいジャズを多用した演出を、対位法と評しました。『大病人』でもまた、胃病を患う武平や、胃カメラなどの場面で、医療ドラマには不釣り合いな、軽快な音楽が流れます。これは対位法というよりは、死へ向かうドラマをなるべく陰気にしないための機能があるでしょう。また、ガンであることを知らず、どうせストレスだろうと気楽に構えている武平を表わしてるようにも取れます。実際、冒頭から流れ続けた曲は、ガン宣告を受けてからは一切流れません。全体として、そうした演出設計になっていると思います。
次にキャストを見てみましょう。
今回もまた、隅々の俳優まで伊丹演出の目が光っていて、ちょっとした場面に奥行きを与えています。
まずは何より、津川雅彦が素晴らしいです。やや傲慢なくらい医師としてのプライドを持つ反面、武平の説得に揺さぶられて本心を語ったり、医事利用に否定的だったモルヒネを看護師の熱意をきっかけに取り入れたり、延命治療の停止を怖がったり、さまざまな面を持ち合わせています。そんな緒方医師のキャラクターを、ほとんど隙のないレベルで演じきっています。何より、しっかりと医師に見えます。
そして、アクの強い武平=三国連太郎と互角に戦う迫力もさすがです。互いに心を交わしていき、最期は「いい友達」にまでなるまでのいくつかの対峙場面はどれも、三国と津川の演技がぶつかり合う名場面です。
武平が自殺未遂を起こしたとき、緒方がマウストゥマウスを施す場面は、明らかに意図的ですね。
武平の愛人・神島彩役の高瀬春奈は、『お葬式』『あげまん』と同じような役、というか、ほぼ同一人物です(笑)。
武平は彩との場面で、やたら情事の手応えばかりに執着し、愛をオーガズムで判定しています。彩も彩で、武平を看取ったあと、さっさとオープンカーで帰ってしまいます。欲望と打算の関係は死んでしまえば終わり、というわけです。
昭和の名バイプレイヤー三谷昇も、わずかな場面で強烈な印象を残します。武平が胃潰瘍ではなく、胃ガンであることを匂わせてしまう役柄は、黒澤明の『生きる』で、主人公に図らずもガンであることを悟らせてしまう渡辺篤を思い出します。それに加えて、延命治療の負の側面を解説する役でもありますが、淡々としながらも過度な治療の理不尽さを忍ばせる語り口は、三谷昇の真骨頂です。
『大病人』は病院が主な舞台ですから、出番の多くなる看護師のキャスティングに、より工夫を凝らしたようです。
伊丹監督はメイキングで、「最近のタレントさんは、物語のない顔ばかりになった」と嘆いています。しかもナース服で見た目が統一される看護師たちに、どんな個性を与えたのでしょうか。
怪人物・武平を担当する看護師には、木内みどりが抜擢されました。舞台出演も多かった木内の張りのある発声と滑舌が、選ばれたポイントではないでしょうか。なので外見に関しては、メガネ、ホクロ、胸と尻のボリュームアップと、伊丹流の改造を全身に施されています。
監督が「声で選んだ」と明言しているのが、独特の声の持ち主である清水よし子です。「どこに出てたっけ?」と思う人がいるかもしれませんが、ベッド上の半裸の彩を見て「きゃー」と叫ぶのが清水です。確かにあの甲高い絶叫には、とんでもないものを見てしまった驚きがこもっていて、可笑しみ誘います。
フリーアナウンサーの南美希子は、きれいな皺が現われる特徴的な額が監督に買われました。ナースキャップ直下のわずかな隙間に着目するところは、いかにも伊丹監督らしいです。
延命治療によってただ生かされているだけの患者役は、言われなければ高橋長英と分かりません。『犬神家の一族』で三国連太郎が演じた佐兵衛翁を思い出します。寝ているだけとは言え、表情や動作無しに存在感を出すのも、ベテランの実力なのでしょう。
映画は、武平の死によって幕を閉じますが、むしろ爽やかな余韻を残します。主人公の死が、そんな後味で終わる映画があるでしょうか。
わずか数ヶ月ではあるものの、武平が死について考え、嫌いだった「頑張る」という言葉を励みに映画を完成させ、仲間たちに見守られた最期を迎えるまで「生きた」時間を過ごし、それを観客も共有出来たからではないでしょうか。
そうした効果を生んだ仕掛けとして、カンタータ「般若心経」は重要です。
武平(正確には劇中劇の武平)が指揮するコンサート会場には、たくさんの観客がいて、「般若心経」が書かれた冊子を見ながら唱和しています。経文は画面にもテロップで表示され、『大病人』の観客も一緒に唱和出来るように工夫されています。近年は声出し上映なども行われていますから、今なら『大病人』も〈読経上映〉が出来そうですし、映画への没入感や読解がさらに深まりそうです。
『大病人』は、身近な題材をエンターテイメントとして提供する伊丹映画の中でも、ひときわ普遍性の高いテーマを扱っていると思います。この度の4K化を機に、観ていなかった人々にも、広く届くことを期待します。
(了)