母の教え
うちの母は本当に適当な人だ。
小さな頃から、まず、勉強しろ、とか、(習い事を)練習しろ、と言われたことがなかった。受験勉強の時は、「早く終わるよ」と何ランクか下の大学の推薦受験を勧められた。就職試験の結果を憂鬱になりながら待っていると、「おちるも受かるも気にしても仕方ない。選ばれなくても、あなたは何も変わらない」とばっさり切られた。社会人になると、それはさらにエスカレートして、「あんまり体が大変だったら会社やめちゃえば?」に変わった。私が新卒で入社したのは、東証一部上場のなかなか優良な企業だったにもかかわらず。
ながいこと、それを笑い話にしていた。こんなに世の中で美化されているはずの「努力」や「忍耐」を子供にさせることに興味のない、ちょっと変わった人なんだと思っていたから。
しかし、その母の考え方が、いまの私の支えになっていることに、最近気がついた。
母はどうやら、努力を否定するわけじゃなく、何かにすがらない、依存しない生き方を教えてくれたんだなと思う。
たとえば私は、今も嫌になったら会社をいつでもやめていい、と思っている。子供を育てている以上、金銭の心配は多少はある。でも、生きてさえいればなんとかなるだろう。そして、相手が嫌になったらいつでも離婚していい、と思っている。
大切なのは、その時に私がやりたいことだ。
あっけらかんとそう思えることがどれだけ自由で、健康か。若い時には全然わからなかった。
母が目指してくれているのは、ただ私の健康だった。私が死なないように。心と体が健康でいられるように。そのために、依存はいらない。自由と健康は、その時の立場で、やりたいことができることで成立する。
新卒の会社をやめ、ずっとやりたかった仕事をするために、年収約半分の会社に転職する時はまっすぐに応援してくれた。「まあ、仕事をする以上、大変なのは変わらないと思うけど、本当にやりたいことだから良かったじゃない」というのが母の言葉だった。「いい会社なのに…」と家族以外の人が心配する中、母の言葉が背中を押してくれた。
その時は何も思わなかったけど、反対されなかったのは今思えば本当にありがたかった。
ただし…。
子供が生まれ、すこし不自由になった今、母が我が子を預かってくれる体制が、私の生命線であると言う事実だけは否めず、それには依存してしまっているのが皮肉といえば皮肉だが…
母よ、本当にありがとう。私は今日も元気です。