東南アジア最高峰・キナバル山に登った話
マレーシアのキナバル山に登る計画を立て始めたのは、決行日のわずか10日前のことだった。
オフ会スキーと弾丸東北旅行に挟まれた数日間で何か面白いことはできないものか……と調べていて海外登山の4文字を思いついた。台湾の山も十分に魅力的だが、もう一歩何か欲しい。まとめサイトを開いて東南アジアの最高峰・キナバル山(Mt. Kinabalu、4095.2m)を知った。4000m台の響きは私を虜にさせるのに十分だった。しっかりと登山道も整備されていると言う。
調べると、手配の仕方には3つの方法があった。個人手配、現地のツアー、日本発のツアーである。前者ほど手間が多く後者ほど料金が高い。日本発のツアーの金額を見て驚いた記憶がある。現地発のツアーでも良かったのだが、やはりできるだけ料金を抑えたい。とのことで自分で手配することにした。
個人手配で山小屋の値段は1406RM(マレーシアリンギット、当時1RM≒30円)、プラス国立公園の保護費用RM50、登山許可証RM400、保険RM10、山岳ガイド確保RM350などを当日支払うため7万円ほどがかかる。今はもう少し値上げしているかもしれない。学生にとってはかなりの出費である……私自身は奨学金を回させていただいているので感謝しかない。
ちなみに今はブログでもキナバル山登山のページが溢れているが、その頃はまだコロナ禍明け直後で古い情報しかなく、調べるのに本当に苦労した。
キナバル山に行く前に手配しなければいけないのは航空券と、何より山小屋である。1日にキナバル山に登れる人数は厳格に管理されており、しかもほぼ全員が山小屋に泊まる必要がある。つまり山小屋が取れなければ詰みなのだ。
キナバル山のラバン・ラタ(Laban Rata)の山小屋に予約希望のメールを送ると、希望の日の翌日の枠で、2人用個室のみ空いていると言われる。しかし料金が倍以上に跳ね上がるため流石に厳しい。数日待っているとなぜかもう一度メールがきて、希望している日に大部屋が取れたとのことだった。なお登山前日までが支払い期限だったが、クレジットを使えず送金もすぐには出来そうになく、その旨を説明するメールへの返信はなく、本当に登れるのだろうかという不安もあった。だがとりあえず行けばなんとかなる!という精神で、日本脱出を決めた。(※)
羽田からキナバル山の最寄りの空港であるコタキナバルの往復航空券を取ったのは出発のわずか3日前であった。
(※なお基本的には、山小屋の予約は最短2か月前、繁忙期なら1年前の予約でも早くないそうです)
1日目
羽田23:50発の飛行機は1時間ほど遅れて出発したが、クアラルンプールにはほぼ予定通り、現地時間7時前に着いた。クアラルンプールの空港でその日の晩の宿を(ようやく!)決め、ネットで予約する。心配していた国内線乗り継ぎも無事終え、昼頃にボルネオ島のサバ州・コタキナバル空港(Sabah, Kota Kinabalu)に到着した。コタとは街の意味で、コタキナバルはキナバルの街という意味になるそうだ。
キナバル山に行くには、まず空港から車で15分ほどのムルデカ広場(Merdeka Square)前バスターミナルに向かい、そこでラナウ(Ranau)行きのミニバスに乗車する。
1人だったが空港からは贅沢にタクシーを使い(そこそこ安い)、広場に着く。バスターミナルとは言うものの、いかにも東南アジアという感じで、ミニバスや人が無造作に散らばっている感じだった。ラナウ行きのバスを探していると言うと、ありがたくもバスの場所まで連れて行ってくれた。
バスはいつ出るのかと聞くと、人が集まったら、だそうだ。そのうち数人お客さんが乗り、運転手もその後しばらくして戻ってきて出発した。どこで降りたいのか聞かれるので、キナバル公園と伝える。何も言わなければ終点のラナウまで行ってしまう。
この辺りから私のeSIMの具合が悪くなり、空港で撮っておいたスクショ頼りになる。途中遠くに見えるキナバル山は、東南アジア最高峰の名に違わぬ大きさで胸が熱くなった。
キナバル公園沿いの道路で降ろされる。
現地は雨で、霧がかかって生暖かく薄暗い雰囲気だった。宿まで約30分歩く。歩道がなく、道路のすぐ脇を歩く。途中で野良犬が数匹吠えかかってきた。道を占拠するかのように佇んでおり、よほど引き返そうか迷う。しかし宿までもう少しのはずなのだ。ここで死ぬのか自分?と思いながらかろうじて歩みを進める。やっと犬の鳴き声から逃れた私は、濡れながらも足早に宿に着いた。
部屋は1人用の小さなペンションになっていて、夕飯も美味しかった。主人も気さくな人で、行動食も売っていた。早めにシャワーを浴びて、次の日起きられるかドキドキしながら寝る。
2日目
無事起きて8時に宿を出発、キナバル公園事務所へ。受付に声をかけ説明を受ける。無事予約は通っていたらしく胸を撫で下ろす。
事務所に重い荷物を置き(要らない着替えだけ預けた)、昼食とビニールの水筒をもらう。さすが高いお金を払っているだけある。ちなみにポーターを雇うこともできるが私は雇っていない。いよいよガイドさんとの対面だ。
ガイドは若いマレーシア人らしい男性だった。後に同い年だと判明した。年上だと思っていたので意外だった。本名は難しくて覚えられなかった。Jahnと呼んでくれ、と言う。私は名前+chanで呼んでもらうことにする。
バンのような車で、登山口のティンポホン・ゲート(Timpohon Gate)まで10分ほど。
いよいよ登山開始である。
ティンポホン・ゲートの標高が1866mで、今日は3273mにある山小屋のラバン・ラタまで、6kmの道のりを登る。明日は午前1時か2時に出て2.7kmほどさらに歩き、4095mの山頂でご来光を見て、ピストンで明日中に一気に下りてくるコースである。下りはヴィア・フェラータ(Via ferrata)というロープやハシゴを使って岩場や崖を通行するコースもあるが、値段が高くなるためピストンを選択した(ちなみに今となっては少し後悔している)。
富士山の5合目から登るよりも全体の標高差はやや大きいが、独立峰というのもあり似たようなものだと考えて差し支えないだろう。
マレーシアの気候のおかげで、ゲートから山小屋までは熱帯雨林が楽しめる。山小屋あたりからは森林限界に入り、山頂のローズ・ピーク(Low's Peak)近くでは、数々の奇岩を横目に大きな一枚岩の上を歩くことができる。
Jahnと話しながらジャングルの中を登っていく。展望はないが、見慣れぬ木や花が生い茂っている。ラフレシアも咲いていることがあるようだが、季節の関係か今は見ない。ウツボカズラはいくつも目にした。
登山道自体は富士山や北アルプスよりも安全なくらいで、階段も多く、安心して歩くことができた。個人的には少しくらいロープか何かある方が好きなのだが、わがままだろう。1km毎くらいに東屋や休憩所も整備されている。
Jahnに聞くと、大抵の日でご来光には出会えるらしい。少なくとも朝は、比較的天候も安定しているようだった。
途中でポーター、日本でいうところの歩荷と何人もすれ違った。小屋までの物資を運んでいるのだろう。驚くほど重そうな荷を担ぎ上げている様子はもはや人間業と思えない。ポーターにもガイドにもJahnの知り合いや親戚がいるらしく、時折行き合った人と親しげに話しこんでいた。
途中東屋で昼食を食べる。リスがたくさんいて、足の間を走り抜けていく。野生のリスを初めて見たので感動したが、すばしっこく写真に収められなかったのが残念だった。
日本人はコロナ禍以前は時折来ていたが、最近はめっきり減って全然案内していないそうだ。でも日本人は強かったよ、登るの早いよね、と言う。実際私たちも、周りに比べて良いペースで進んでいた。
彼はその頃登山者から日本語を少し習ったそうで、要所要所でガンバレ、と言ってくれた。"chan"という愛称を知っているのもそのためだったらしい。他にもいくつも日本語の単語を知っていて感心した。普段はマレー語を話すが、英語もよく話すようだった。少なくとも私よりもずっと上手だ。私も言語にもっと力入れないとなと思う。
6時間ほど歩くと、鬱蒼としたアマゾンから急に空がひらけてきて、そこはもう雲の上の世界だ。青い空の中、雲がすぐそばにあって手を伸ばしたら綿菓子みたいに千切れそうだ。
ついにラバン・ラタの小屋に着いた。外から見ても大きな小屋だったが、中に入ると思わず感動の声をあげてしまった。
小屋というよりホテルだし、これが山の上だとはにわかに信じがたい。木造の気配すら感じさせない。立山の山小屋なども綺麗だが、正直日本にはないレベルの豪華さだった。
大部屋には、二段ベッドが数台。隣はヨーロッパの人らしかった。一度戻って、Jahnと明日の時間を決めて別れる。ペースが早いから3時発位で良いよと言われて、夕食を食べに行く。
何よりも驚いたことに、夕食はビュッフェだった。しかもどれも美味しい。サバ茶(Sabah tea)というご当地の紅茶が、煎茶のようでいてかつ仄かに自然な甘みもあって気に入った。
食堂から一歩外に出ると、そこには夕日の美しいテラスがあった。湧き立った雲が黄金の空の中にくっきりと線を落としている。
登山者が外やテラスに出て写真を撮っていた。日本の山小屋と同じで、ちっぽけな存在である登山者が肩身を寄せ合いつつ、広大な自然の見せてくれる優しい表情を垣間見る感じが、山の好きなところだ。
ここにはなんとシャワーもあった。さすがに水のみではあるが。私は水が冷えそうだったのでやめておいたが、こんなに、北岳よりも高い場所にシャワーがあるだなんて、感動してしまった。
翌日に疲れを残さないように、20時すぎに寝た。
3日目
朝、というより深夜2時頃に起床。
少し雲がかかっていたものの、満天の星が広がっていた。これは逃すわけにいかないと数枚写真を撮る。日本の空とは違う、赤道直下の星座が写真には映っていた。
eSIMは死んでいたがなんとかJahnと合流して出発。暗い中をヘッドライト装着で、時々渋滞を起こしながら登山者が登っていくところは、富士山とも似ていた。あれほど九十九折りではないが、はるか前にも後ろにもヘッドライトの明かりが見える。初めは所々木があったが、登るにつれ足元が大きな石畳のような岩になる。さすがに昨日ほどの元気はなく、空気が薄いからかすぐに息も切れる。防寒していてもそこそこ寒い。
しかし薄闇の中見えてきたピークと、目の前一面に広がる一枚岩は美しいものだった。ちょっと止まって休憩したいなとも思うけれどガイドさんの進みは一定だ。
7時前、ついにローズ・ピークに到着する。到着直前は息も絶え絶えでしんどく感じたが、4065.2mの看板を見た途端、自分は日本のどこよりも高い所にいるんだという感動に胸が熱くなる。明るくなるにつれ、奇岩の色形模様が浮かび上がってきた。前の大きな岩山はゴリラの顔に見えた。ピークでご来光を待つ人も段々増えてくる。
7時すぎ、太陽が向こうの岩山から顔を出し始めた。朝焼けが目に眩しい。
低い位置に雲があったため強い日差しは初めの一瞬で消えて、優しい光がゴツゴツとした一枚岩の地面を照らす。日差しが弱まった途端寒く感じた。太陽は偉大である。もう後は下りていくだけだ。
行く時は暗くて見えなかった景色が眼前に広がっている。まるで違う惑星に来たかのような不思議な景色だった。右側にはゴリラの顔の映る大岩、左側には先の尖った滑らかな大地。その間に、遥か遠く緑の山並みが見えた。
途中岩の上に池があったのも印象的だった。湿った所には時々草が生えていた。
先に行くJahnを後ろから撮りながら進む。傾斜が急になると、地面の先に下界の緑と街が見えるのも面白かった。
途中で他の登山者と話す。毎年登りにきていて、今年で最後にすると言っていた人もいた。もちろん初めての人もいた。それぞれの顔に、疲れと、裏腹の達成感とが浮かんでいた。
ラバン・ラタに戻り、朝食を食べてから出発。同じような動きをしていた登山者で食堂は賑わっていた。
つい名残惜しく後ろを振り返ってしまうが、さっきまであの岩山の上にいたと言われても信じられないくらい、随分と遠くに感じた。周りには徐々に高い木が増えてきて、ついに眺望はなくなった。階段の多い登山道を下りながらJahnと色々な話をする。
特に彼の興味をひいたらしいのが、ここに登るためにいくらのお金が必要なのか、日本での平均月収はいくらか、というものだった。細かくは忘れてしまったが、ガイドをしていても随分と生活は苦しいらしかった。小さい頃からここにいて、数年前にはポーターとして、今はガイドとして、自分と家族のために働いているという。同い年の青年が既に何年も働いていることに驚いてしまったし、自分がいかに甘くぬるい環境にいるかということを改めて考えさせられた。
下りは楽だ。昼過ぎにゲートに帰りついた。Jahnと写真を撮ってもらい、せっかくなので登頂証明書をもらう。色とりどりの証明書が誇らしかった。事務所まで帰ると、そこでJahnとはお別れだ。
預け荷物を取って、ここで旅は終わりとなる。はずだった。
帰りのバスは、正規のバス停がなく、自分で手を挙げて捕まえなければならないというのは、事前情報で知っていた。しかし待てど暮らせど、それらしきバスが来ない。バンに片っ端から手を挙げても止まってくれない。
通りがかった車のおっちゃんに「そんなんじゃダメだよ、もっと主張しないと!」と言われたが、主張してみても効果はない。
1時間くらいした時だろうか、たまたま通りがかった数人がいて、もしやバス待ちをするグループではないかと話しかける。コタキナバルに行きたいんだ、一緒に行かせて、と言うと、顔を見合わせている。ここで私は間違いに気づいた。どうやらその人たちは同一グループだったようで、バスは全く関係ない。突然知らない人に同行させてくれと言われたら怪しいに決まっている。
しばらく向こうは話し合っていたが、急に何人かと聞かれる。日本人だと言うと、まあそれなら良いかという風に、おいで、と指示される。
なんと、そのグループが借りていたバンに乗せてもらえることになったのだ。そのグループは大家族で、今からバンでコタキナバルの方に下りていくのだそうだ。
ひょんなことから、海外でまさかのヒッチハイクをすることになった私。日本では一度終電逃した時にヒッチハイクしたなぁとかいう何の自慢にもならないことを思い出す。なんてこった。まあでも土産話にはなるだろう。
私は助手席に乗せられることになった。後ろの年下の女の子たちがコンニチハ、アリガトウ、と言うのでなぜ日本語を知っているのかと聞くと、日本のアニメは有名だからだそうだ。ナルトなど、定番アニメの名前があがる。日本パワーすごい。信頼度もすごい。そういえば行きの入国審査で金属探知機が鳴った時も、日本人?なら大丈夫!とざっくり通されてしまった。良いのかそれで。ともかくありがたい限りである。
バンはコタキナバルに入り、その大家族が泊まる海辺のホテルの辺りに着く。お礼を言って別れる。本当に旅をしていると優しい人に助けられてばかりだと痛感する。
海辺の街は暑かった。
この時も私のeSIMは運悪く死んでいて、現在地すら分からない。ハロー下界、ハローマレーシア。ここはどこ。私は私。なんとかなるさ。
市場を彷徨い、Wi-Fiを求めてショッピングモールへ。もうちょっと余裕があれば写真を楽しんで撮ることができたのだろうがさすがに焦っていたのかもしれない。
モールの中でいくらか両替する。そこでキナバル山に登ったと言うと良いね!僕登ったことないよ、すごい!という反応が返ってきて気を良くする。マレー半島には滞在するのかと聞かれていいえと答えると驚かれる。ええ私もそう思います。キナバル登山のためだけにマレーシアに来る人中々いないんじゃないか。
モール出入口にはガードマンのおじさんが立っていた。空港に行きたいのだと言うと、タクシーか船で行けると言われる。港で空港行きの船があるか聞くが、遠すぎるか今日は便がないかで、タクシーを勧められる。タクシー乗り場を教えてもらった。
結果的に、空港までの料金は、キナバル山に行く時にバスに払った料金よりも安かった。
ようやく空港にたどり着いた私は、空港併設のカプセルホテルに宿泊する。小さいが、必要なものは最低限揃っていてシャワーも浴びられて、とても快適だった。下界の安心感。最高。
夕食はファストフードで済ませるが十分美味しかった。お土産も買う。サバ茶が気に入ったので友達に買って行くことにする。
翌日のフライトが早く4時には起きないといけなかったので、何度もフロントにモーニングコールを念押ししたら呆れられた。
4日目
モーニングコールと共に起き身支度を整える。まだ夜明け前だ。最後に一目、キナバル山を見たかった。
水平線は青色からオレンジに変わりつつあって、ずっと向こうにキナバル山のなだらかだが少しごつごつとした黒い影が、パステルカラーの中によく映えていた。昨日は上に雲がかかっていたが、今日は快晴のようだ。今山頂にいる人は昨日以上に美しい光景を見れているのかもしれない。
しかし不思議と、羨ましいという気持ちは起こらなかった。もちろん昨日見た景色が十分に美しかったというのもあるが、私の経験は私だけのものなのだから。袖振り合った人々との記憶も、仮にどれほど天気が悪い登山も、私だけの思い出で、であるが故に価値があると思える。
実際のところ、日本の北アルプス中心に何度か行き多少は登山を語れるかなというレベルになった身としては、個人的には独立峰よりも連峰のほうが好きだとわかってきた。
稜線がはるか彼方まで伸び、森林限界を超えた低いハイマツや高山植物の緑の中、登山道が波打った線を描く。ピークを超える度に新しい景色が現れ、ずっと向こうにあると思っていた山が、気付いたら目前に迫っている。
そういう楽しみは、高度の違いによる変化が主の独立峰では中々見られない景色かと思う。だからこんな風に紀行文を書いておいて、私はキナバル山よりも日本のアルプス、特に槍ヶ岳が見える山域が好きだ。
しかしこれも、実際に行かなければ分からなかったことである。だから私は、海外登山の初めの一歩として、キナバル山に登って本当に良かったと思う。
そしてまだ見ぬ世界をたくさん見たいと思う。
これはそんな、私の体験談である。