日記 本と破壊についていくつか
文章に投げつけられるスラングのいくつか──「お気持ち」とか「ワナビっぽい」とか「ゼロ年代くさい」とか──はおおむね,低俗である。クソをクソと呼ぶのは結構。しかしなにがどうクソでゴミでカスなのか語るのを怠り,遠巻きに冷笑して悦にひたる仕草はいただけない。人をバカにするなら覚悟を持たないとだめだ。吐きかけるツバまで他人のものを借りるのか? ミームに頼るな! 自分の言葉で殴れ。
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本の話をする。
『ライティングの哲学』を読んだ。己の無能を受け入れよ,と書いてあった。実践的である。原稿用紙を丸めて捨てるばかりではダメなのだ。まずは「書く」ことを玉座から引きずり下ろし,幻想を捨ててただ書けることを書くこと──まったくそのとおりだけれども,どうにも受け入れられない。たぶんわたしは子供で,夢見がちで,未だに全能性を信じていて,自分だけは死なないと思っているのだろう。無能を悟るのは難しく,死ぬのはいつも他人ばかりだ。
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今さら宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を読んだ。インターネットではゼロ年代批評がメタクソに嫌われており,ゼロ年代的という言葉はほとんど蔑称として機能している。ゼロ年代批評はときおり亡霊のようにSNS上に浮かび上がるや否や,「ホモソ」「大学で卒業しとけ」「気づいたらオワコンになってた」と,数多の呪詛を吐かれてふたたび殺される。なにがそんなにマズかったのだろう? わたしはそもそも批評についてなにも知らないので,とりあえず『動ポモ』『ゲーリア』をだらだら読み,ようやく『ゼロ想』まできた。
結論,ここまで嫌われる理由はわからなかった。
たしかに瑕疵は多い。女性向けオタク文化については──少なくとも動ポモでは「本書の重点はどちらかといえば男性のオタクたちにある」と留保をつけているが──ほとんど語られないし,エロという単語を回避しながら延々とエロゲの話をするのは正直キモいし,男性中心の空間だったことは想像に難くない。
ストーリーや受容態度ばかりが取り沙汰されるので,松下哲也が「絵を見るということができなかった」と批判するのもうなずける。個々の作品への言及があまりにも薄っぺらだ,と怒りたくなるのもわかる。
それから宇野の『ゼロ想』にかんしては,どっちもどっち的な俗流の相対主義を掲げているようにも読めてしまう。イデオロギーの究極的な無根拠さを強調するあまり,「南京大虐殺が捏造か実在か,戦後民主主義が虚妄か否か,好きなほうを信じればよい」とまで言ってしまうのには,さすがに口が滑っただろ……と思う。『現代思想 いまなぜポストモダンか』冒頭の鼎談(大橋完太郎 × 千葉雅也 × 宮﨑裕助)で,宮﨑が「ポストモダンのせいで相対主義や冷笑主義に陥っている」という一般的なイメージを嘆いていたが,おそらくこうしたポストモダン思想=真実を軽視した相対主義という謎図式は,『ゼロ想』からも読み取られうるのだろう。
しかしこれら問題はゼロ年代批評の限界を示しこそすれ,そのすべてを無に帰する理由にはならない。もしくは単なる誤読だ。
ホモソくささと女性の疎外は欠点だが,それは男オタクについての論が無駄であることを直ちには意味しない。
視覚芸術を扱うくせに絵を論じないのは欠点だが,『ユリイカ マンガ批評の最前線』の東浩紀との対談で伊藤剛が語るように「反映論と表現論は矛盾なく接続しうるもの」だから,表現論的な視座の欠落それ自体は致命傷ではない。
宇野の誤解をまねく言いまわしは欠点だが,宇野が「信じたい物語を信じればよい」という姿勢をなんども「思考停止」と非難している以上,くだんの箇所だけ受け取って『ゼロ想』を俗流相対主義と理解するのはあまりにも文脈を無視した誤読と言わざるをえない。
もちろん問題点はまだまだいくらでもあるし,とくべつゼロ年代批評を擁護する意図もない。けれども罵倒語がわりに「ゼロ年代的」というタームをもちいる姿勢は明らかに不健全だ。なにかを殴るなら正しく殴るべきで,安全圏から冷笑の矢をちくちく投げかけるのは本当にやめたほうがいい。これは批評に限らず,なんにでも当てはまる。
まあ,誠実さは失わないようにしましょう,という程度の話だ。
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破壊の話もする。
宇野や宮台などゼロ年代の人間が共通にかかえていた問題意識のひとつに,オウム的な欲望がある。価値観の宙吊りと流動,社会的な自己実現に対する懐疑──それらに耐えられない人々が回帰する先に,オウム真理教があった。麻原彰晃が死んで数年,オウムはもはや歴史の教科書的な隔たりのある出来事と化してしまったが,イスラム国にポスト・トゥルース,陰謀論と,同じ問題系は現代まで引き継がれているようだ。世界に意味を与えたいという欲望からくる性急な物語回帰はしばしば破壊的になり,そしてなにより,破壊は気持ちいい。どれだけ「ゼロ年代」を笑ったところで,少なくともこの点に限って言えば,彼らの視座は古びていない。
しかし時は下り現代,この破壊的な欲望との戦い方という問題はどのように扱われているだろうか。
現代哲学の研究者である飯盛元章は,「破壊の形而上学」と題したオンラインイベントで破壊のもちうる可能性について論じていた。飯盛は退屈を破壊=新しさの不在ととらえ,國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と対比するかたちで,
あらゆる退屈を吹き飛ばし、人間たちがみな〈とりさらわれる〉ほどに圧倒的に新しく魅惑的な世界が突然やってくるかもしれない。その可能性を思弁してみよう。そしてその可能性に賭けよう、というのが〈暇と退屈の形而上学〉の方向です。
──Twitterより(太字はわたしによる)
このように語る(〈とりさらわれ〉はハイデガーの用語で,「衝動によって突き動かされる」という意味のようだ)。メイヤスーをベースにもつ飯盛の議論では「破壊」の意味が日常的なそれとやや異なるし,現実の因果律っぽいものは実は事実的でしかないよネと暴くところに面白さがあるのだが,それを踏まえてもなお,破壊の無邪気な可能性を説く行為はオウム的な欲望の肯定につながりかねないのでは……という恐ろしさがある。
飯盛はイベントの冒頭で破壊のもつポジティブな側面を強調した。実は破壊はそれ自体で価値があるのだ,と。けれどもゼロ年代の識者にとって,破壊が価値を持つなど自明のことわりに過ぎなかったはずだ。人々の期待したような破壊は起きなかった,世界は終わらなかった,だから岡崎京子は『リバーズ・エッジ』でギブソンの詩を引いたし,地下鉄サリン事件は起きたし,宮台は『終わりなき日常を生きろ』を書いたのだ。
『暇倫』でテロ的な欲望や不幸への憧れがあっさりと退けられるのは,なにも國分が議論をなまけたからではない。それはゼロ年代の時点ですでに通りすぎたのだ。オウムという単語が古びただけで,『暇倫』は『終わりなき日常を生きろ』や『ゼロ年代の想像力』と同様,基本的に「ハルマゲドンなき世界でどう生きるのか」を書いている。正確には,國分はハルマゲドンの後も論じているぶんだけ射程が広いけれども,ともあれテロ的欲望を拒絶する点はゼロ年代から連続している。だからこそ『暇倫』の結論は,國分じしんが言うとおり,きわめて微温的かつ健全なものにならざるをえなかった。オウムを肯定するのなら,437ページある『暇倫』は序章の29ページで完結してしまうのだから。
したがって飯盛の〈暇と退屈の形而上学〉は,『暇倫』の欺瞞を暴いたのではなく,むしろ國分が自明に退けていた破壊の享楽へあらためて立ち返る運動だった,といえる。思うに,これはゼロ年代であれば相当な留保付きで喧伝されるべき主張だったろう。
わたしは飯森元章を批判したいのではない。あれは一般向けのごく短いイベントにすぎないから,まさかいきなり「周知のとおり破壊はめちゃくちゃ気持ちいいのですが」などと切り出すわけにはいかないし,繰り返すように飯盛の議論が走る方向はオウムやイスラム国とはまったく異なる。それから飯盛は破壊の能動/受動のちがいにも言及していたはずだから,テロの肯定につながらないよう注意ぶかく議論を組み立てているのは間違いない。
けれども飯盛がイベントの冒頭で破壊のポジティブさを──それもオウムやテロといった歴史的な文脈と切り離されたかたちで──説明せざるをえなかったこと,現代人には説明を要すると判断したことに,わたしは驚く。現代人は破壊の気持ちよさを忘れたのだろうか。ひょっとして現代は破壊が,あるいは破壊の失敗が,忘却されているのではないか。
口が滑った。現代は○○な時代,という言説のほとんどはクソの役にも立たない。お詫び申し上げます。
けれども,アメリカ同時多発テロからちょうど20年になる現在,破壊の欲望との戦い方というテーマはかつてほどの熱をもっていないように見える。それが時代の趨勢なのか,わたしの観測範囲の問題なのかはわからないが。
相互監視的なソーシャルネットの空間では,そうした非倫理的な欲望は抑圧ないし不可視化されてしまう。燃える首里城もノートルダム大聖堂も美しいに決まっている。アフガンの映像を見て興奮するのはなんらおかしくない。世界規模のパンデミックとはなんてワクワクする響きだろうか。しかしそれを大っぴらに言えば自分も燃えてしまうから,「不謹慎だけど」と予防線を張ったり鍵アカウントでつぶやいたりする。
批判じたいは仕方ない。SNSは社会だから。現実の被害者のことを思いやっていないと言われたら,まったくそのとおりだとしか言えない。けれども注意が必要なのは,これら破壊の欲望はあなたも抱えうるという点だ。ドラゴンカーセックスを扱う手つきでこの欲望にふれてはならない。住み分けだのゾーニングだのを唱えるのは結構だが,それがきわめて普遍的な欲望であることを忘れてはならない。欲望から目をそらして蓋をする人間,あるいは社会には,かならずヒビが入る。
皮肉なことに,現代にもたらされた破壊はきわめて「つまらない」ものだった。ビルは倒壊せず,爆発は起こらず,アスファルトは砕けない。代わりに人々はじわりと職を失い,妊婦はたらい回しにされて流産し,老人が死ぬのは自然の摂理だから仕方ないと言われ,ワクチンだのマスクだの五輪だのをめぐる議論は数多の断絶を生み,なによりわたしたちは,死者を数えるのに慣れた。人間はなにごとにも慣れる存在だ──とはだれの言葉だったろう? 宇野が『ゼロ想』で必死に説いていた日常に「死」を取りもどす行為は,最悪のかたちで実現された。人々は「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」から「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」に移行したのではなく,単に死を数字として見るのに慣れた。日常は輝きを増すどころか,すべてが陳腐化しただけだ。あなたが父母兄弟の死を数える日も遠くない。
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わたしは安吾が好きだから,破壊の話は基本的に『堕落論』で事足りると思っている。偉大な破壊,その驚くべき愛情,偉大な運命,その驚くべき愛情──破壊に〈とりさらわれ〉る人々は美しい。そこには堕落がないから。運命しかないから。けれどもその美しさは,泡沫のような虚しい幻影。
しかしさすがの安吾も,こんなに陳腐でそれゆえに恐ろしい破壊が,愛のない破壊が存在するとは,想像できなかったのではないか。人は死ぬ。音も炎も爆風もなく死ぬ。人々はそれを数える。老人も妊婦も新生児も,若者も芸能人も親も恋人も死ぬ。血も銃声もなく死ぬ。人々はそれを数える。それだけだ。死は物語を失った。わたしたちが手ざわりを感じられるのは自分の死だけで,そして死ぬのはいつも他人ばかりだ。