見出し画像

『リア王』 & 徹底勉強会 ☆10 シェイクスピアの最高傑作

東大前期教養でいちばん面白い授業は河合祥一郎先生の「演劇論」でした。主軸は『ハムレット』で,エリザベス朝の演劇について簡単に学んだら,あとはひたすらハムレットの勉強をします。
映画やドラマの「リアル」な演技に慣れていた私は,はじめて舞台で『ジュリアス・シーザー』や『ハムレット』を観たとき,どのキャラも妙にベラベラと長ゼリフをまくしたてるのに困惑しました。ぜんぜん「リアル」なお芝居ではないんです。おまけに難しいことばが多く,先んじて台本を読んでおかないとなにを言っているのかまるでわからない。というか,読んでもわからない。注釈もわからない。そうしてシェイクスピア劇がわたしの無知な頭に残していった大量の疑問符は,「演劇論」でほぼ氷解しました(語ると長いので詳細はふれません)。別に勉強しなくたって演劇はたのしめるのですが,こと古典に関しては,専門的に学ぶほうがずっと味わいぶかくなると思います。

それはさておき,今回の主題はハムレットではなく『リア王』です。
9/13にさい芸(さいたま芸術劇場)でおこなわれた「リア王 徹底勉強会」に参加してきました。上述の河合先生と,シェイクスピア全訳に挑戦中の松岡和子先生,すなわち日本シェイクスピア界の大物ふたりによる対談形式です。『ヘンリー八世』など,他の演目でもちょこちょこ実施されています。

まず『リア王』のあらすじを簡単に述べ,つづけて勉強会のうちとくに重要だと思うトピックを記して終わろうと思います。


『リア王』 あらすじ

老王リアは退位にあたり,三人の娘に領土を分配する決意を固める。二人の姉は巧みな言葉で父を喜ばせるが,末娘コーディリアの率直な言葉にリアは激怒し,彼女を勘当し二人の姉にすべての権力,財産を譲ってしまう。老王の悲劇はここから始まった。シェイクスピア四大悲劇の最高峰

ちくま文庫の裏表紙をそのまんま持ってきました。
おおむね事足りますが,勉強会に関わる部分を中心に,いくつか補足しましょう。既読の方は飛ばしてください。

まずブリテン王・リアは財産の相続に際して「親を思う気持ちがもっとも深い者に最も大きな贈り物を授けよう」と言います。
それを受けた長女ゴネリルの「巧みな言葉」がこんな感じです(以下すべて松岡訳)。

私のお父様への愛は言葉に尽くせません
(中略)
これほど子が父を愛し,父が子に愛されたことはない。
貧しい息に託した言葉など,無力になるほどの愛。
あらゆるかたちの愛の言葉を超えております。

嘘くせ〜と思った方,正しいです。次女リーガンも似たようなことを言いますが,全部嘘っぱちです。姉ふたりはリアが大嫌いですから。
一方末娘コーディリアの「率直な言葉」とはなにかというと,ひとこと,

Nothing, my lord.

これだけです。コーディリアはリアを愛しているのですが,姉ふたりのように財産目当てに美辞麗句を並べることはしません。「私はお父様を愛しています。子の務めとして。それ以上でも以下でもありません」とも言うのですが,リアはもう癇癪持ちのおじいちゃんなので,コーディリアの発言の真意をくめません(ぶっちゃけコーディリアの言い方も悪いけど)。ブチ切れて末娘を勘当,彼女をかばったケント伯爵もついでに追放します。
コーディリアは国を出てフランスの王妃になりますが,ケントは忠義心の塊なので,変装してケイアスと名乗り,ふたたびリアに仕えます。
ここの ”Nothing” は『リア王』を貫く重要な単語ですね。

さて,リアはすぐにゴネリルとリーガンに裏切られ,お付きの騎士たちを失い,怒りと嘆きですっかり正気を失います。そばにいるのは道化とケイアス(=変装したケント伯爵)のみ。嵐の中をさまよううち,3人はボロきれ一枚だけを身にまとった男,気違いトムに出会います。リアは ”Nothing” の体現者であるトムをいたく気に入り,こんなことを言います。

どうだ,俺たち三人はまがいものだ。お前は正真正銘のモノだ。人間,衣裳を剥ぎ取れば,お前のように哀れな,赤裸の,二本足の動物に過ぎない。脱げ,脱げ,こんな借り物!

ちょっと複雑ですが,気違いトムはエドガーという貴族の変装です。エドガーはグロスター伯爵という忠臣の長男で,人を疑わないまっすぐな男。しかしエドガーのひとつ下の異母弟エドマンドは,自分が妾の子であるがゆえに差別されること,ひとつしか年のかわらない兄エドガーがすべてを相続することに我慢ならず(当時イギリスでは長男がすべての相続権を得ていました),「エドガーは父グロスターを裏切った謀反人」との虚偽をひろめます。こうして追われる身となったエドガーは,追手から逃れるために身をやつして気違いトムを名乗るのです。

グロスター伯爵はリアを守ろうと動きますが,リーガンたちにバレて拷問され,夫のコーンウォール公によってなんと両目を潰されます。ここはエグすぎて台本からカットされていた時代もあるようです。
やがて盲目のグロスターとトム(=変装したエドガー),そしてリアたちが出会います。リアは相変わらず狂っており,グロスターのこともわかりませんが,一瞬だけ正気を取り戻します。そのときかける言葉がこうです。

I know thee well enough, thy name is Gloucester.
(お前のことはよく知っている。お前の名はグロスター)

そのままなんやかんやでリアはフランスのコーディリアのもとへ辿りつき,ついに正気を取りもどします。リアはようやく末娘の愛情に気がついたのです。

さて,ここまでならハッピーエンドですが,直後の戦争でフランスは敗れ,リアもコーディリアも投獄,さらにコーディリアは謀略により殺害。リアが愛娘の死体を抱えて嘆き,そのまま息を引き取って終幕です。
ちなみに,カットしましたが,エドマンド,ゴネリル,リーガン,コーンウォール,グロスター,みんな死んでます。悲劇では人がたくさん死にます。


「リア王 徹底勉強会」 備忘録

前半45分が二人の対談,後半45分が参加者の質問への回答,という構造でした。
後半部分はyoutubeでしばらく無料配信されています。

すべてのトピックを記すとえらく長くなってしまうので,とりわけ重要な(未読の人でも楽しめそうな)点のみ書いておきます。
K:河合先生,M:松岡先生です。発言の時系列は実際の講演と一致しません。

●実は西洋人より日本人の方が理解しやすいお芝居かも?

K:リーディング公演(※先日河合先生の新訳・演出で行われました)をやるとき,今の時代に『リア王』をやる難しさを感じた。この作品はリアの絶対的な権威が核。痴呆老人をめぐる ”family” の物語ではなく,いかに忠義を尽くすか,という封建社会の価値観が色濃く反映された作品だから,当時と価値観の違ういま演じるのは難しい。むしろ日本人のほうが「サムライもの」で封建社会になじみがあるぶん,理解しやすいかもしれない。
M:蜷川さんもそういう感覚があったかもしれない。舞台のバックに大きな松の絵を用意していた。

●コーディリアはなぜリアに ”Nothing” などと言ってしまった?

K:彼女のストア哲学的な信条によると思う。姉たちがベラベラと愛のことばを並べるとき,コーディリアはこう言う。

What shall Cordelia speak? Love, and be silent.
(コーディリアは何と言えば?   愛して,黙っていよう

コーディリアはリアを愛しているが,ゴネリルやリーガンのように言葉で飾りたてるのは虚飾,嘘だと考えている。愛しているという真実は胸の中にあり,またお父様自身も私の愛をわかっているはずだから,ことばで語ることはしない。嘘をつくのはストア派のいう「徳」と逆行する行為である。
※ストア派は発言より行動を重視するそうです。

M:姉ふたりのやり口が強烈なぶん,コーディリアはナヨナヨした純情な乙女であるように捉えられがちだが,むしろ頑固一徹さではいちばん父王リアの血を引いている。とくに理解できないのは,リアと再開したとき,ひとことも「あんなひどいこと言っちゃってごめんね」と謝らないこと。
K:自分の正しさを確信しているから,謝る必要がないと考えているのだろう。なにかと謝ってしまう日本人には理解しがたいself-righteousness(独善)的思想も感じる。

K:また,コーディリアの追放後は道化がひどく落ち込み,リアに「おじちゃん,その「なんにもない」をなんとか出来ないかね?」と問いかけるシーンもある。リアは「なんにもなければなんにも出てこない」と返す。これがリアの間違いで,実際には ”Nothing” の裏に娘の愛が隠れていたわけだが,リアは気づけなかった。
K:嵐のなか,帽子も服も脱ぎ捨てて(※帽子は権威のシンボルです)みずから ”Nothing” へと近づいていくことで,リアははじめて「なんにもない」ことの意味を知る。これまで,衣服や従者などの「飾り」が人を文化的に作りあげると考えていたリアだが,装飾をすべて剥ぎとったらなにが残るのか,これも作品のテーマである。
M:狂気に堕ちたリアが気違いトムを見て「博識なギリシャの大学者」と言ってしまうのは,実際に ”Nothing” を目のあたりにしたから。
※もともとリアは,「必要を言うな。どんなに卑しい乞食でも貧しさのどん底に何か余分な物を持っている」と語り,「余分な物」こそが人間を人間らしくすると考えていました。このあたりは『リア王 松岡和子訳』の解説や,『「もの」で読む入門シェイクスピア』などでも触れられています。

●作中にリアの妻が一切出てこないのはなぜか?

K:リア王の種本(※シェイクスピアの作品にはたいてい元ネタがあります)である『レア王年代記』では,リアは妻の死を受けて退位を決意する。娘の愛情テストも臣下に提案されたもので,姉ふたりだけが先にテストの情報を得て,末っ子を出しぬくためにわざと大げさに愛を語る…というお話。シェイクスピアはこの経緯をすべてカットし,いきなり愛情テストからはじめた。『リア王』を観た人が「いきなり何これ?」と思うのはおそらくシェイクスピアの思惑どおりで,コーディリアの困惑を観客にも体験させようとしたのではないか。

M:存在を消されたのはリアの妻だけではなく,グロスター伯爵の妻も同じ。妾もほんのすこし言及されるだけで,それも「いい女だった。こいつ(エドマンド)が出来るについてはかなり楽しい思いをしたものだ」と,性の対象としてしか登場しない。さらにリアはゴネリルに「この雌の子宮には不毛を送り込め! 生み増やす機能を干あがらせ,忌まわしい体から,こいつの誉れとなる子が生まれないようにしろ!」と,呪いすらかける。作品全体を激しいミソジニーが貫いており,はっきり言って読むのがつらい。
K:この背景には,当時の男性性に対する強迫観念がある。「男はなにかあったら(剣を)抜け! 死にたくなかったら鍛えろ!」と,とにかく強さが求められた時代だった。また,妻を得てはじめて一人前という思想は,ひるがえって「妻を寝とられたら男として終わり」という不安を常にもたらした。『オセロー』もそういう物語。いまは草食系男子ということばがあるが,エリザベス朝に草食系がいたらコテンパンにやられていただろう。『リア王』のオズワルドや『ハムレット』のオズワルドは,なにも悪いことはしていなくても,ただ弱そうというだけでイジメられる。
※リア王における「母」の不在も,やはり『リア王 松岡和子訳』の訳者あとがきに詳しく書いてあります。

●なぜ道化は突然消えてしまうのか?

K:なぞ。リアが狂乱の場で道化を殺してしまう演出もあり,先日のNTLiveでもそうだった。ただ,説明をつけてしまうより「あれ?」で終わらせたほうがシェイクスピアらしい気もする。また,リアは最後にコーディリアの亡骸を抱えながら「俺の阿呆が絞め殺された!」と嘆くことから,当時は道化とコーディリアを同じ役者が演じていたのでは,とする学説もある。
※シェイクスピアの時代に女優は存在せず,コーディリアのような女性役はすべて声変わり前の少年俳優が演じていました。

M:『荒野のリア』でも道化とコーディリアは同じ役者が演じた。また,90年代にケネス・ブラナー(イギリスのシェイクスピア俳優)がグローブ座でリア王をやったとき,彼の奥さんであるエマ・トンプソンが道化を演じた。女性が道化とは珍しいね,と話しかけたところ,「わたしはお城の台所で生まれたの,だから体が弱くて衰弱死してしまうのよ」と語った。
K:RYC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)は,日本の文学座に似て,戯曲に書かれていないバックストーリーまで考えるのがすき。リーディング公演でも衰弱死を採用した。嵐の場では道化のセリフがだんだんと少なくなり,リアの問いかけにも答えなくなる。

※シェイクスピア作品には珍しく,リア王の道化は名前すらありません。そしてシェイクスピアに登場する最後の道化でもあります。批評的には,主君の愚かさを指摘する存在である道化は,リアが完全に狂気へ堕ちてしまうことでもはや存在理由を失った…ともいえます。高橋康也『道化の文学』などに詳しいです。

●『リア王』のテーマは「再会」

M:リア王は,人を知らないために起きた悲劇。コンコーダンス(シェイクスピアに出てくる全単語の逆引きリスト)で調べたところ,リア王は ”know + 人” という文型が他の四大悲劇の倍近く登場していた。まさに「人を知る」というプロセスが書かれた作品。リアは娘のことを知らなかったから,姉ふたりの巧言令色にまどわされ,一方でコーディリアを勘当してしまった。グロスターも,エドマンドのことばだけを信じてしまったがために,エドガーを追放した。そんな悲惨な物語だけど,その中に彼らの「再会」という喜ばしい瞬間がある。リアはグロスターとコーディリアにふたたび出会うし,グロスターとエドガーも再会する。
K:シェイクスピアらしいのは,それをすべて逆説的に描くこと。リアは狂って一度なにもかも失うことでコーディリアの愛に気づく。グロスターは視力を失ってはじめてエドガーを知る。

M:わたしがいちばん好きなセリフは,リアの ”I know thee well enough, thy name is Gloucester” 。リアの狂った頭に,理性の光が瞬間差すような,ふたりの「再会」がパーフェクトになった場面。死んだと思っていた人間にふたたび会える,これはほとんど死からの再生に等しい
K&M:この「再会」を,シェイクスピアは『間違いの喜劇』『十二夜』『ペリクリーズ』など,喜劇やロマンス劇では繰りかえし書いている。
M:亡くなった人にもう一度会いたい,ほんの一瞬でもいいから会って思いを伝えたい,というのは人間の究極の願望だと思う。この究極の願望をシェイクスピアは喜劇で実現しているわけだけれど,喜劇だけでなく,『リア王』という悲惨な,過酷な,何人ものひとが残酷な死に方をする作品に織り込んでいるのはほとんど奇跡と言っていい。”I know thee well enough” なんて,ほんとうになんでもない簡単なことば,いわゆる金言や名文句では全然ない。シェイクスピアお得意の凝ったことば遊びとは対極にある表現だけど,だからこそシェイクスピアの作家としての成熟も感じる。
K:familyの話ではない,と言ったけれど,再開する相手はやっぱり家族(※ケントやグロスターのことも考えると,河合先生はかなり広い意味で「家族」と言っています)。自分にとってなにが大切なのか考えるとき,これまでの人生でどんな人と出会ってきたか? がとても重要。もう二度と会えないと思っていた相手に会える喜び,それが書きこまれた作品であると思う。


以上です。
四大悲劇でもっとも悲惨とされる『リア王』のテーマが,実は喜劇でしばしば描かれる「再会」というポジティブな概念だったとは,まさに目から鱗が落ちる思いでした。
願わくば,なにかを失う前に,大切な存在に気づきたいものです。現実の我々に許される「再会」は,せいぜい夢や写真のなかだけですから。

もともとは蜷川幸雄演出で2008年に上演された『リア王』の感想も付記する予定でしたが,勉強会の内容がすばらしすぎたので,今回はここまでとします。
講師のおふたり,およびさい芸の方々,ありがとうございました。


いいなと思ったら応援しよう!