【甲子園】銚子商業野球部の江川卓攻略。
こんばんは、スギモトです。
note毎日投稿34日目です。
今日は銚子商業野球部について書きます。
昭和の怪物「江川卓」を73年夏の甲子園で撃ち破ったことで有名です。
そんな銚子商業と作新学院が初めて相対したのは1972年、銚子球場でした。
「黒潮打線」の爆発を期待して地元民が球場に押し掛け、作新学院は完全にアウェー。
誰しもが銚子商業の優勢を期待していました。
しかし、江川の投球に三振20ヒット1本とまるで歯が立たず地元民は呆気にとられました。
圧倒的なまでの力の差を見せつけられました。
銚子商業監督斎藤さんはこの日から江川の攻略を始めます。
作新学院に定期的に練習試合を申し込み、江川の豪速球対策や癖を研究し続けた結果三振の数はみるみる減っていきました。
この時にはもう江川は何か違うと違和感を持ち始めたのではないでしょうか。
そして時は流れて1973年夏の甲子園です。
栃木県予選を2回戦から準々決勝まで3試合連続のノーヒットノーランで勝ち上がり、準決勝の小山高校戦も、9回までは無安打に抑えるというとんでもない実績を引っ下げ江川は甲子園に乗り込みます。
そんな両校は2回戦で対戦します。
試合序盤から三振は少ないものの、やはり江川の豪速球と伝家の宝刀「カーブ」に苦しめられます。
この時江川の「なにか違う」という違和感から「負けるかもしれない」というものに変わっていました。
試合は両チーム無得点のまま延長10回裏、銚子商はサヨナラのチャンスを掴みました。
2死一、二塁の場面で2番・長谷川泰之選手が一二塁間を破るヒットを放ちました。
二塁走者は悠々ホームインと思われましたが、キャッチャー本塁の手前で走者をブロックし、作新はどうにか徳俵で踏みとどまりました。
こと時江川は「完全に終わった」と思ったと話しています。
試合途中から降り始めた雨は延長に入って勢いを増し、12回裏の銚子商の攻撃が始まる頃にはバケツを引っくり返したような大雨になっていました。
「江川は雨に弱い」というデータが銚子商業にはありました。
「勝てるかもしれない」銚子商業ナインが再び奮起します。
2つの四球とヒットで1死満塁、打席には今日ヒットを放っている2番の長谷川選手が入りました。
3ボール2ストライク。
銚子商業斎藤監督がこの局面でスクイズのサインを出したということは後に明らかになります。
何故なら、最後はサヨナラ押し出しフォアボールという結果で激闘の幕が下されたからです。
元高校球児であり、僭越ながら甲子園にも出場することができた経験から言っても斎藤監督の「攻略」は凄すぎます。
今でこそネットが当たり前にあり、簡単に情報を入手できますが当時はそんなものありません。
知恵と工夫でここまで強くなれるということを証明しました。
そして翌年1974年の甲子園ではなんと優勝してしまいました。
こんなサクセスストーリー聞いたことがありません。
僕が言うのはおこがましいですが、甲子園は良い所です。
満員の甲子園から第一試合のまだ観客が一人もいない静まり返った甲子園まで、甲子園は様々な表情をします。
全国の高校球児はここに行くために3年間野球以外の全てを投げ捨てて練習に取り組みます。
その中でも選ばれたほんの一部しか甲子園には行けません。
僕にとって甲子園は生涯忘れることの出来ない体験でした。
今年もセンバツ甲子園が始まり初日から手に汗握る展開の試合が続いています。
1日でも早く満員の甲子園で応援団と一体となってプレーできる日が来てほしいと切に願っています。
それではまた明日。