人の夢
今まで職場で1日で5000字くらい文字を書いていたのに、また書いているという、、、
自分の中の小さなご褒美として、セブン産の「冷たいまま食べるチキン南蛮」を買って食べることがある。今日はそれを食べた。少し普段より頑張れたので。
前回は横着をして足に熱湯をぶちまけた(大事には至っておりませんのでご心配なさらず)カップの油そばの湯切り、今日はちゃんとできた。胡椒と卵入れたらお店の味に近づいて神。
noteを書くBGMとして『葬送のフリーレン』をアマプラで見始めた。3周目。相変わらず、音楽と映像の美しさが、ストーリーの美しさをマシマシにしていてすごい。
前置きはこの辺にして、今日はとある人の「夢」に関する話を読んで、それに感銘を受けたのと、久々にちゃんと表に出す文章を書きたくなったので、まとめました。
僕はある意味で、「夢」をすでに叶えてしまった側の人間です。
物心ついたころから、鹿島アントラーズが好きで、なぜか持ってたアントラーズのキャップをかぶっていた少年でした。それもどこかの公園に置いてきたのか飛んで行ったのかして無くしてしまったけれど。
それ以外は割と物静かな方だったと思う。ブロック遊びをしたり、幼稚園児向けの雑誌にある紙の工作をしたりして1人でも遊んでる人でした。山折りと谷折りをここで覚えた。余談だけれどミニ四駆はめっちゃハマった。
そこから今もやっているポケモンに手を出し始めたり、遊戯王がめちゃくちゃ流行ったりして、同世代ならだいたい手を出したようなコンテンツにだいたい手を出した小学生時代になります。
ただ、家庭の方針からか、テレビゲームは中学生の時に親戚にPS初期をもらうまで買ってもらえなかった。かろうじてゲームボーイとゲームボーイカラーは買ってもらえたから、それでポケモンやドラクエをずっとやってた。
小学生の時は、友達が何も言わずに先に帰っちゃった時に、「なんで帰っちゃうんだよー泣」と半泣きしながら相手の背負っているランドセル (あくまでランドセル)に膝蹴りしちゃうくらい、気難しい子どもだったと今でも思う。ランドセルでも良くない。寂しがり屋でもあったかもしれない。だから、毎日のように途中まででも一緒に帰れる友達がいるか探してた。
そんな小学生のころの夢は、サッカー選手でした。
全然上手くなかったし、今でも覚えているけれど、ヘディングをするのが怖くて落下地点の予測をして、いざヘディングするぞ!ってなっても目をつぶってしまって後ろにそらす、みたいな感じでした。ディフェンスなのに。それでよく怒られてたな。
ただ、サッカーをするのは好きだったので、中学卒業までは続けた。でも、やっぱりそれ以上は上手くならなかったし、ヘディングは怖いし、怒られながらやるのが無理になってしまったので、そこでサッカーを辞めました。
中学生のころは、学級委員長、まではいかないけれど、何かとまとめたい側の人間でした。生徒会には興味なかったけれど、選挙管理委員を毎年やったり、とある委員会の委員長をしたり。ただ、中2まではそれなりに慕われていたけれど、中3の時に軽いいじめ?に合い、、、、中3は本当に人生の黒歴史だったので早く高校生になりたくて、毎日塾に行って勉強してました (ここである意味、運命的な出会いをします) 。自分でも避けられちゃった原因はわかってるんだ。でも、ちょっと毎日つらかった。
その時に、音楽にすごく救われた。当時はTSUTAYA全盛期だったから、時間を見つけては地元のTSUTAYAにレンタル品を探しに行き、お小遣いの大半をCDレンタルに使った。好きなバンドやアーティストのは買うこともあった。Dragon Ash、BーDASH、RIP SLYME、KICK THE CAN CREW、ORANGE RANGE、HY、10-FEET、locofrank、、、、とにかくあの時代のメロコアやラップ、ミクスチャーが好きで良く聴いていた。いまだに現役の方々、今も聴いてます。ありがとうございます。GONGON寂しいよ。たくさん支えられました。ありがとう。
そんな中、姉がギターを始めて、歌い始めました。今でも歌っている (マジです) 姉の影響もあって、僕もギターを始めました。姉のお古のアコギが最初のギター。今や借りパク状態のアコギでCコードから始めました。そこから、音楽をする楽しさを覚えました。
だから、高校は音楽ができる学校、少なくともギターが弾ける学校に進学しました。進学先では迷わずギターが弾ける部活に入った。でも軽音のある学校には落ちてしまったので、別の形でギターを始めます。部活名書くと珍しくてバレるので書きませんが音楽に没頭す日々が始められた。
高校時代はとにかくギターを弾いてた記憶(とちょっと恋愛)しかないので、とにかくギターを弾いてたら、成績が並みに落ち着いて、勉強をする体力がそんなに付かなかった。勉強には体力がいる。同級生が8時間勉強した!と話していても、僕には眠くて5時間もすれば良い方だった。だから大学受験は上手く行ったとは言えないけれど、僕にとっては居心地の良い大学に行けたので良かった。ちなみに、大学受験を控えた高3の間ですら音楽を聴きあさり、Radiohead、Arctic Monkeys、oasis、NIRVANA、RED HOT CHILI PEPPERS、Bloc Party、マキシマム ザ ホルモン、ELLEGARDEN、KEN YOKOYAMAあたりにはこの頃に出会った。
高校生の時から、漠然と「なりたいもの」ができた。
大学生になってからは、軽音サークルに入った。そこでもギターを弾いていた。ただ、どの世界にも上には上がいて、僕よりもはるかに上手いギタリストが何人もいて、僕はそれなりに弾けるギターボーカルをすることが多かった。ASIAN KUNG-FU GENERATIONやストレイテナー、BEAT CRUSADERSとかをサークル仲間とコピバンをしてギター弾きながら歌っていた。たまにリードギターをやったこともあったな。
自分の中では、真面目に音楽をする人生も選択肢としてはあったかもしれない。大学3年生のときに、1回だけオリジナルバンドをやった。mogwaiっぽいインストのポストロックのなりぞこないみたいな曲を1曲だけ作った。録音とか残ってるのかな?もう何も覚えていないし、後輩が作ったもう1曲と含めてたった2曲だったけれど、オリジナルを作ってやったのは楽しかった。
でも、だんだん周りに流されてしまって、音楽を仕事にすることを少しずつ諦めてしまった。友達に「バンドは趣味だしね〜」みたいなことを普通のテンションで話されて「そうだよね!」と返しつつ、「こんなに上手いのに、趣味なのか、、、」とショックを受けたこともある。ただ、だんだんその意見をなんとなく自分事として捉えてしまっている自分にも漠然と気づいてしまって、僕は音楽を趣味でやっているのかな〜と思うようになっていた。
自分の中で、音楽に蓋をしてしまっていた。
ただ、幸い聴くのは大好きだったから、disk unionに行ってはCDを買い漁っていた。ピーク時は部屋に1,000枚はあったと思う。
大学時代には、大きな出会いを2つした。シューゲイザーとアイドルである。(どん!)
「マイブラが復活してライブをするらしい!」「フジロックに出るらしい!」なんてことをサークルの先輩が話していて、マイブラ??シューゲイザー???と頭がハテナだらけで話を聞いていた。そこがMy Bloody Valentineとの出会いだった。『LOVELESS』を初めて聴いた時の感想は本当に思い出せないけれど、だんだん聴いてくうちにどんどんシューゲイザーにハマっていった。Ride、Slowdive、Lush、CHAPTERHOUSE、Drop Nineteensなどなど、いわゆる初期シューゲイザーと言われるバンドはだいたい聴いた。何故かいまだにCocteau Twinsだけは聴いてません。自分でも不思議。そうこうしてるうちに、マイブラを教えてくれた先輩よりもシューゲイザーに詳しくなっていた。
そんな中、日本中ではいつの間にかアイドル戦国時代に入っていた。神7が〜とか総選挙が〜とかをテレビで毎日のように観てるうちに自分がアイドルにハマっていた。
最初の推しメンはSKE48の松井玲奈さん。マジすか学園とかの演技に魅せられて好きになりました。握手会は朝早すぎて行けず、ずっと在宅。
そうこうしてるうちに、友達にももクロのライブに行かないか?と誘われて行きました。それが初めてのアイドルのライブ。会場の熱気、オタクたちの熱量、なんかめっちゃ叫んでる感じ、なんか全部好きだった。もうその時にはZになっていて、ライブしててもデカい箱ばかりになっていたし、なかなかチケットも思うように取れない時期になっていたけれど、西武ドームや武道館でのライブは何回か行った。かなこぉ↺って言ってた。
そうこうしてる間にマスロックに出会い、人生の中でも1番好きなジャンルの音楽に出会ってしまったのもあるけれど、それは別の機会に話せたら話します。
シューゲイザーとアイドルに出会ってしまった大学生の時、そこに触れるにはもちろんアルバイトをする必要があって、大学生になってからずっと、とあるアルバイトをしてました。
大学でもその仕事にある意味直接関わる教職課程の授業を取った。4年生の時に教育実習にももちろん行った。少し自慢なんですが、大学生の時は単位落としたことありません。大学院にも行ったけれど単位落としたことありません。単位落とすの、時間がもったいないと思ってたから、意地でも取った。最終的に諸々合わせて大学4年間で200単位取った。これはマジです。
就活もしたんですが、ちょうど震災とぶつかり、だんだんと心が折れてしまって、自分のやりたいことってなんだろう、ってなった時に教師をちゃんと目指そうと思って、大学院に行くことにしました。内部進学。大学院を修了すると、教員免許のランクが良くなるんです。詳しくは調べてみて!だから、大学院に行くのはある意味オトクだった。
修士課程1年目。今までの人生で1番しんどい1年だった。
この1年があったからこそ、だいたいのことは耐えられるし、多少忙しくても「あの頃の方が忙しかったな」と言える。そのくらい、寝てなかった。
そう。この時期はマジで寝れなかった。平日3時間くらいしか寝れてない。寝れない自慢でもなんでもなく、物理的に寝れなかった。
大学院の授業と並行して、教職の授業も取ってた。
母校の修士課程は1年目にゼミに2つ入らないといけなくて、週に2回ゼミの課題に目を通し、その間に自分の研究発表が1ヶ月に1回くらいあるからそのための研究をし、週3のバイトも続けた。ゼミの課題で読んでた英語の文献。全く覚えてないけれど、英語のなまりがそのまま書いてあるから辞書に出てこなくて予測で訳さないといけなかったのが辛かった、、、そのおかげもあって、英文読むのはそれなりにできるようになった。
2年目はゼミが1つになるのと自分の研究だけすれば良かったからだいぶ楽になった。が、修士1年の年末年始にインフルと胃腸炎を立て続けに患い、体調が終わってた。本当に食事がうまくできなくなってしまって、体重が激減した。勉強は楽になったけれど、そこからの2年くらいはずっと体調との戦いだった。
勉強が大変だった1年目。体調が終わってた2年目。その2年間の修士課程を終えたあと、1年間の半フリーター時代を経て、今の仕事を始めました。
半フリーター時代のことはあまり話したくないけれど、大学院に行ったおかげで取れた教員免許の資格をちゃんと仕事にするための勉強をしてました。教師になるには採用試験に合格しないといけないので、そのための勉強として約1年、フリーターっぽいことをしてました。
ただ、だんだん教師って本当にやりたいことなのかな、って気持ちが増してきて、色々考えるようになった。なんだか自分、優柔不断ですね。
それに、学校も卒業したから行っておらず、定職もない状態だったから、漠然と「何者でもない自分」に不安を感じるようにもなっていて、夏に受けた教員の試験もうまく行かず(シンプルに勉強が足りてなかった)、焦りみたいなものも感じてた。
あと、やっぱり音楽やライブが好きだから、ライブに行ける仕事がいい、っていうちょっとしたワガママもあった。学校の先生だと、土日も部活あったりするしね、、、
そんな不安も感じてたある日、アルバイト先の上司から不意に問いかけれたことがあります。
「◯◯くん、これから先どうするの?うちで仕事する?」
「はい」
こんな二つ返事で、マジでこのくらいの簡単な会話で仕事が決まってしまった。
そんな職場で、なんだかんだ10年くらい、塾の先生をしています。
僕が中学生のころに通っていた塾に、とても好きな先生がいた。話がいつも面白くて、関西弁で、生徒がふざけていても声量とかユーモアで制してるような男の先生だった。
高校生の時に、漠然とそういう先生になりたいと思って、その人が国語と社会の先生をしてたから、大学では西洋史の勉強をした。
教員免許は一応地歴公民のを持ってます。まだ失効してないよね、、、?
実は、大学生の時にアルバイトをしていた塾で、今も働いてる。メインの教科は数学と理科。大学生までの俺の勉強が全く生きない中、中学生までの数学と理科の先生をしている。
バイト先から拾ってもらった形ではあるけれど、漠然となりたかった「先生」と呼ばれる仕事を、今仕事にできてしまっている。
だから、夢を叶えたとか、そういう大それたことは言えないけれど、高校生の時に漠然となりたかったものに、今、なれてる。
そんな今の僕にとって、次の夢ってなんだろうってなった時に、僕は、僕が見れる範囲の子どもたちに、必要以上の苦労をしてほしくないなと思って接するようになった。
僕はもう自分がなりたいものになれたから、これからは、未来を生きていく子どもたちに「ここで勉強してこれて良かった」と思ってもらえるような先生になることなんじゃないかなと思うようになった。
そんな感じで仕事をしてながら、週末はシューゲイザーを軸にした某「極北を目指すオルタナティブアイドル」のライブに行き、推しメンに会い、次の1週間を生きる元気や愛をもらっている。
僕は、自分の夢はもう半分以上叶えてしまった。不意な上司からの勧誘とは言え、高校生からやりたいと思っていたのは事実だし、10年も同じ仕事をしている。多分これからも続けると思う。転職は、わからない笑。業界は変えないとは思う。
だから、次は「人の夢」に寄り添える人になれたらと思っている。子どもたちと、推しメンの夢。
その結果、その人の成功が僕の喜びにも感じるようになったし、悲しみが自分ごとのようにも感じることもある。
今年、僕が直接指導した中3の生徒が定期試験で100点を取った。本当に嬉しかった。自分がやってたことが間違ってなかったと思えた瞬間だったし、彼が実力を発揮できたことが素直に嬉しかった。
推しメンがO-westに立ったつい最近のあの日。まだ現実にはもっと大きなステージがあると思うけれど、今の規模だとだいぶ大きなステージ。何回涙がこぼれたかわからないくらいステージに立っている姿が頼もしくて、その景色を見せてくれたことが嬉しくて、本当に素敵な思い出ができた。たくさんの人がその光景を見てたことも、嬉しかったな。京都でも確実に爪痕を残したよね。着実に大きくなっているのを感じてる。
僕は、こういうことに今、とても感動しています。
仕事の方は、毎年、幸せな成果を得た人も残念ながら希望通りにならなかった人も送り出し、次の生徒の将来に向かって日々の仕事をしていくのだと思う。それはこの仕事をしている上での自然の摂理で、受験まで見た生徒たちのことは卒業生と言っているけれど、彼らが幸せに生きていてほしいと切に願う。
ただ、推しメンとは、今の推しメンとはどうなるのだろう。
アイドルにはいつか必ず終わりがくると頭では分かっている。それを去年1回ちゃんと経験したし、それまでも所々で経験した。
多分、きっとその時がきたら僕は悲しむんだと思う。
でも、これだけは言える。
去年まで大阪に何回も行って通ったグループに対して、僕は負の感情を本当に持ってなくて、いまだに楽しかったことと幸せだったことを思い出として持てている。
あの娘たちの夢はあそこで終わってしまったけれど (もちろん今は別の道を行きながらそれぞれの夢に向かっていると思いつつ) 、あの娘たちの夢を応援できたこと、そこで得た友達たちやそこでの経験が、今も活きてる。あの日々が本当に楽しかったのは事実だし、一緒に半分当事者意識も持ちながら遊びに行けたのは、本当に幸せだった。
だから、きっと、今の現場にもそういう気持ちでその時を向かえられるんじゃないかな?
未来のことは正直どうなるか全くわからない。でも、今、とても日々が楽しいし、たまに迷惑をかけてしまって申し訳ないとも思いつつ、幸せにすごせてます。僕にとってあなたたちは光だから。
だから、もう少しとは全く思ってないけれど、もっと末永く、夢を追わせてね。あなたの夢に寄り添っていたいです。勝手ながらそう思います。
なんか、もうすぐ7000字が見えてきて、仕事中よりも文字書いてるな、、、、、
日付的には昨日書いてくれたとある人の「夢」に関するブログに感銘を受けていたら、7000字のまとまりがあるようなないようなnoteができてしまった。とても長くて最後までたどり着いてくれた方々いるかわからないけれど、ここまで読んでくれてありがとう。
ちょっと照れくさいくらいに自分の半生や職業を書いてしまったけれど、詮索はしないでね。見つけたらそっとじでお願いします。
※注 タイトルの「人の夢」は、漫画『ONEPIECE』からの引用です。人の夢は、終わらねえ!!!!!