なぜaikoは愛しくなるとぶつのか
皆さんは愛しくて仕方がなくなって人をぶったことがあるだろうか。
愛しくて抱きしめる、愛しくて手をつなぐ、愛しいと言葉で伝える……、そうではない。ぶつである。手のひらを思いっきり相手の頬に向けてスイングする、あれである。
多分、大多数の人はぶたないだろう。しかし、aikoはぶつ人として知られている。2003年初冬に発売されたaiko14枚目のシングル「えりあし」でぶっている。
2003年初冬というと、中島美嘉は雪の華を恋人と寄り添って見てたら幸せがあふれ出して(雪の華)、ミスチルは良かったことだけ思いだしてやけに年老いた気持になっているときで(くるみ)、ELTは君におはようと言っていたときだ(幸せの風景)。
JポップはまだAKB旋風によってオリコンチャートがぐちゃぐちゃになる前で、牧歌的な平成中期の冬の歌があふれていた。そして、それがウケていた。しかしaikoは、aikoだけは、愛しくてぶっちゃっていた。一人だけあらぶっていた。
2003年冬、aikoの中にあったものは何だったのか。「えりあし」を詳しく紹介したい。
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「えりあし」の出だしはこうだ。
早速ぶっている。言ったそばからぶっている。
ここまで当たり前のようにぶつぶつ言っといてなんだけれど、果たして「愛しくて仕方がない」と思ったら人をぶつだろうか。愛情を示す非言語コミュニケーションとしては異常と言わざるを得ない。僕はaikoを17年間愛しているが、贔屓目に見ても普通じゃない。
あと、「ぶってごめんね」ではなく、「ぶっ『たり』してごめんね」なのだ。「たり」ってなんだ? 他にも何かしているのか?
気になるところだが、続きの歌詞を見ていきたい。
ぶつだけでは飽き足らず今度は泣き真似だ。しかももう愛おしいとかそういう理由じゃない。困った顔が見たいから泣き真似だ。困った人である。
しかし、ぶつとか泣き真似なんてかわいいものだ。
「えりあし」の真髄は2番にある。
ふったり泣き真似した「あたし」を「あなた」はきっと優しく慰めたのだろう。その仕打ちが「胸が痛い」だ。
想像してみてほしい。
ぶつも泣き真似もぐっと堪えた上で、優しくしたら「その優しさは胸が痛い」と返されるのだ。
きっと「あなた」は「いや、オレもぶたれた頬が痛いんだけどwww」みたいな無粋なことは言わないだろう。そんなことを言っても、意味がないこと、状況を悪化させることはもうわかっている。
そして「えりあし」の中の「あたし」と「あなた」の苦しいすれ違いはまだ終わらない。
ここにきて、いよいよ「あなた」は行き場所を失う。一線を越えた、ルビコン川を渡ってしまった。二人の関係は、もうどこにも行けない。
少しだけ解説を挟む。
ぶたれ、泣き真似され、優しくしたら胸が痛いと言われてしまった「あなた」。ではどうしようかと考えただろう、迷っただろう。そして「あなた」は前を向いた。夢や目標のために努力をした。何のために努力したのか、それはもちろん「あたし」と一緒に幸せになるためだ。
その頑張る「あなた」に対して「あたし」はこう言う。
「あなたが夢や目標に向かって頑張っていると、息が苦しくなる。だからやめてほしい」
ぶたれて、泣き真似をされる。
優しくすると、胸が痛いと言われる。
希望に向かって頑張ると、息が苦しくなると言われる。
じゃあどうすればいいのだろうか……。「あなた」と「あたし」の関係は八方ふさがりになっていく。
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皆さんは「えりあし」の中の「あたし」を悪い女だと思うかもしれない。
ところで「えりあし」は本当に恋の終わりを歌っただけの歌なのだろうか。
aikoは日常のさまざまな景色や移り変わりを「aiko」というフィルターを通すことで、すべてを恋の歌、愛の歌に変えてしまうという稀有な特殊能力を持っている。
どっぷり失恋の歌に聞こえる「えりあし」だが、案外aikoの当時の日常成分が多めに含まれているのではないかと見ることができる。aikoは近くにいたはずの仲良しの「あなた」に置いて行かれてしまう孤独、関係が変わってしまうことの切なさを2000年代前半によく歌っている。
2000年代前半というと、aikoが「歌手になりたい無名の大阪の女の子」からJポップ界のメインストリームに定着した時期だ。私生活においても、大阪から東京に拠点を移し、それまでは画面の向こうの人だった芸能人 国分太一との交際もスタートしている。
客観的には公私共に順風満帆の時期だ。
しかし、その時期のaikoには「あなた」に置いていかれる、もしくは「あなた」という言葉を通してぼやかしている何かに置いて行かれる感覚がつきまとっている。
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話を一度「えりあし」に戻そう。
「えりあし」の中の恋愛は終わりを迎える。
しかし恋愛は終わっても、「あたし」と「あなた」の人生はまだ続いていく。そこにはaikoのひとつのアンサーが示されている。
ここのaikoの歌い方は素晴らしくて「5年後あなたを見つけたらーーー」のらーーーーの伸びなんて最高に美しい。感情に一片の曇りもない。
しかし、aikoの声のまっすぐさに流されてしまいそうだが、冷静に考えてほしい。
「この人は、こんだけやっといて背筋を伸ばして声をかけんの?」と、そう思わないだろうか。
しかも「あたし」は「あなた」に対してとんでもなくひどい仕打ちをしてしまったことをちゃんと覚えている。次が「えりあし」のラストだ。
そう、あなたのヘタな笑顔だ。
「えりあし」の中に登場するあなたがめっちゃ無理してたんだなということが垣間見れる。もはやいろんな負荷がかかりすぎて自然に笑えなくなっている。
そしてそれを「一度たりとも忘れたことはない」のに「背筋を伸ばして声をかける」のだ。そして、「あたし」はそうすることに一片の迷いもない。
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「えりあし」とは何なのか。
私たちはaikoの言葉の真意を知ることはできない。ただただ、想像し、解釈し、思いを巡らすことしかできない。
ここからは「えりあし」のひとつの解釈だ。
「えりあし」のサビはこのようになっている
「あたし」は一人でも「あたしの旅」を歩けるようになっている。
そこには、かつては一人では歩けなかったことが逆説的に示されている。でも今は「あたしの旅」を一人で歩けるようになっている。
それでも「あたし」はこう思う。
一人で「あたしの旅」を歩けるようになっても、頭の中には「あなた」がいる。
たくさんのすれ違いをしてしまい、たくさん傷つけてしまった「あなた」。それでも、5年後に会いたいと思う「あなた」。離れていても脳裏には「あなた」だけが浮かぶ。
「あなた」とはいったい何なのか。
「えりあし」でaikoが「あなた」に込めたのは、特定の恋人や好きな人ではないのかもしれない。
故郷 大阪の街や古くからの友達、大阪で夢を追っていたかつてのaikoを支えていた大切なものたち、これらを「あなた」という言葉に乗せている。もちろん恋人も「あなた」の中に含まれているかもしれないが、それは全部ではなく一部だ。
2003年冬、aikoは夢をかなえて満たされた生活をしながらも、どこかで寂しい気持ちを持っていた。かつての大切なものたちとの関係性が変わってしまったこと、傷つけてしまったかもしれないことを知っていた。
そして、それでもなお「あたしの旅」を、たとえ一人でも続けていこうと決心した。それが、「5年後」=未来のためには最も良い選択だと思った。
aikoの中に去来する大阪と東京、それぞれの生活・人間関係、変わっていくもの・これから積み上げていくもの、こういった心情が強く反映された曲が「えりあし」であり、2003年のaikoである。
愛しくてぶってしまった「あなた」の中には、そういういろいろな要素が入り込んでいるかもしれない。