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♯5 大亀が城主の交代を告げる・棚倉城

堀の水面に大亀が浮かぶと城主が交代するという言い伝えがあることから別名を「亀ヶ城」と称する棚倉城。築城名人が手がけた城だったが,最後は戊辰戦争の戦火にかかり落城・焼失した。

名人・丹羽長重による築城

「棚倉」と聞いて,なんとなく心躍るのは,戦国最強武将と謳われる,あの立花宗茂にゆかりの地だからかもしれない。立花宗茂は,関ヶ原の戦いで西軍に与して改易の憂き目にあったものの,慶長11年に棚倉1万石で大名として復活している。ただし,まだ棚倉城は築かれておらず,町の北方にある赤館城や現在の棚倉小学校にあったとされる大長屋が拠点だったらしい。
 立花宗茂が旧領の筑後柳川に復帰した後に棚倉を拝領したのが丹羽長重である。長重もまた,関ヶ原の戦いののちに改易され,その後復活を果たした数少ない大名の1人だ。長重の父は,織田信長譜代の重臣であり,安土城普請の総奉行も努めた丹羽長秀である。その子,長重もまた,父譲りの築城名人として評価されていたようで,それが大名復活の要因の一つであったのかもしれない。長重は,城地選定にあたってわざわざ,そこにあった神社を遷宮してまでその地にこだわった。それほどの要害の地だったからだろう。棚倉城の主郭部分だけを東側から見ていると,平坦地に築かれた城にしか見えない。しかし,西側に回ると急崖となっており,この城が段丘上に築かれていることがよくわかる。
 城の完成を見ずに,丹羽家は白河に転封となったが,長重が城を完成させていたら,また,違った姿を見せていたのだろうか。

二代将軍徳川秀忠は,丹羽五郎左エ門長重に命じて,棚倉に平城を築かせた。長重は案を練り,この地にあった近津神社の神境を最適地とし,宮を現在の馬場都々古和気神社に移し,寛永2年,この地に築城をはじめた。寛永4年,長重は白河に移されたが,代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。阿部美作守正静の代になり,戊辰戦争の兵火にかかり,慶応4年6月24日落城した。この間250年,城主の変わること16代であった。

 現地説明板(2024.12.5)

棚倉城の縄張り

 棚倉城の縄張りは,きれいな輪郭式で,「回」の字を北西から南東方向に引き延ばしたような形をしている。その様子が,正保城絵図からもよく分かる。一見単純にも見えるが,細部に目をやると本丸の2箇所の入り口は,馬出し部分を枡形にして櫓門を配し,守りを固めている。しかも,遠目に見ると城の守りとしては弱々しさを感じてしまう本丸の土塁も,登ってみるとその高さに圧倒される。なかなか堅牢な守りである。さらに,絵図中の二の丸の土塁のラインに目をやると,屏風折れや出隅が多く見られ,横矢を掛ける工夫が随所に施されていることが分かる。そして,二の丸西方の急崖には,石垣も築かれて防備が固めらている。この石垣が残存しているのだが,中学校の敷地に入らないと見ることができないようで,写真の撮影は断念した。しかし,遠目に石垣を見ることができ,段丘が形成する高低差も実感することができた。
 この城に拠って,戊辰の戦で持ち堪えることができなかったのは,兵員数の少なさであったのだろうし,さすがに大砲などの重火器での攻撃には耐えきれなかったといったことなのだろう。これが,戦国時代であれば,決して防備の弱い城ではなかったのではないかと思う。

本丸東側の内堀(2024.12.05)
現地説明板中の棚倉城縄張図(2024.12.5)

棚倉藩を偲ばせるもの

 棚倉城跡に小さな茶室が残されている。城内にあったものなのか,そうでないのか定かではないようだが,城主・阿部家ゆかりのものであることは確からしい。
 棚倉城の建造物としては,長久寺の山門が,寺伝により宝永 4 年(1707)棚倉藩五代藩主太田備中守資晴により棚倉城二の丸南門が寄進・移築されたとものと分かっている。棚倉城唯一の建造物遺構だ。二の丸石垣とともに,今回見ることが叶わなかったのが残念である。

阿部正備茶室(2024.12.5)

 この茶室は,棚倉藩主の阿部家にゆかりの建物です。四畳半(京間)の一隅に水屋を配した四畳席の茶室で,周囲を板壁とする類例のない遺構です。
 明治時代に編纂された『東白川郡沿革私考』の記載によれば,阿部家十三代の阿部正備(まさかた)の所有であったものを,明治維新後に町内の商家が譲り受けて保存してきたものです。
 正備は,文政六年(1823)に生まれ,天保九年(1838)に白河藩主となりました。文武を奨励し,藩校修道館を士分以外の子供たちにも開放し,和歌に長じた歌人でもありました。
 嘉永元年(1848)に二十五歳で隠居し,養浩,省私堂などと称しました。慶応二年(1868)の国替に伴い阿部家十七代の阿部正静(1849〜78)に従い棚倉に移住しますが,明治七年(1874)に東京で没しました。

現地説明板(2024.12.5)

 街道が大きく折れ曲がる城下町特有の道路にポケットパークが設けられている。そこに,まるで小江戸川越のような櫓が建ち,城下町の風情を匂わせている。江戸時代に15代棚倉藩主・松平康英が川越へ転封となったことが縁で,昭和47年に棚倉町と川越市は友好都市となったらしい。それゆえの,川越風の時の鐘ということだ。

ポケットパークの時の鐘(2024.12.5)

阿部氏の転封と戊辰の落城

 現地を踏査してみると,なかなかの堅城ではないかと思われる棚倉城だが,戊辰の戦では,あっけなく落城している。その不運は,白河城主だった阿部家の棚倉転封から始まっていたのではないかと思う。
 最後の棚倉藩主・阿部正静(まさきよ)は,幕末の混迷する政局の中で外国奉行や老中を務めていた白河藩主・阿部正外(まさとう)の長男である。正外は,イギリスなどによる兵庫開港要求に対処する過程で,朝廷から違勅を咎められて官位剥奪と謹慎を命じられた。そのため,正静が後を継ぐこととなった。この問題は,当主の交代だけでは済まず,阿部家は白河から棚倉への転封となった。代わりに白河へ入るはずの松平康英が急遽,川越に転封,空いてしまった白河城は幕領となった。戊辰戦争という危急の時に城主不在の城となってしまったわけである。当然,旧領主である阿部家は,多くの兵を,奥羽越列藩同盟の重要拠点となった白河城の守備に回した。そのため,自領である棚倉の守りが薄くなってしまったのである。そして,白河城は慶応4年(1868)5月1日に新政府軍の手に落ちた。同日「十六ささげ」と恐れられた棚倉藩家老の阿部内膳も銃弾に斃れ戦死した。その後同盟軍は,白河城の奪還を目指して攻撃を繰り返すものの失敗する。逆に,6月24日には,板垣退助が880余の兵を率いて棚倉城攻撃に向かった。棚倉城は呆気なく落城・焼失。城を守っていた藩主の父・阿部正外は逃走した。これにより,白河城の東方地域も新政府軍が支配するところとなり,戦局の大勢が決したと言える。

戊辰戦争での棚倉藩は,奥羽越列藩同盟軍として,藩の主力が各地で戦った。中でも藩士阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は仙台藩の「鴉組」とともに「細谷からすと十六ささげ,なけりゃ官軍高枕」と謳われるほど新政府軍から恐れられた。慶応4年(1868)6月24日,各地へ出動し手薄になった棚倉城下に,参謀板垣退助が率いる新政府軍総勢880余名が大砲六門をもって進撃し,主力を欠く棚倉城は,一日で城下町の一部とともに焼失した。

現地説明板(2024.12.5)

棚倉城を見守ってきた大欅

 棚倉城は,白河城とともに築城名人・丹羽長重が手がけた名城であった。戊辰戦争で焼失したことが本当に惜しまれる。城跡には,長重による築城以前から棚倉の地を見守ってきた大欅が,今も枝を広げている。

棚倉城跡の大ケヤキ(2024.12.5)


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