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「オルタナティヴ」 イマとは別の在り方を探す旅

「ラテン語の解釈(interpretatio)は翻訳という意味である。異なった思考の様式を、その本質的相違を強調するために比較する通訳は、ある種の翻訳をしている。」(1) カルロ・ギンズブルク

もう3年も前になる。
友人たちと共に、「オルタナティヴ鍋」というアートイベント+異業種交流会のような場所を作り始めたのは。

オルタナティヴとは、既存のものに取ってかわる新しいもの。
つまり、「イマとは別の在り方」という意味の言葉だ。

アートは、それ自体、オルタナティヴな価値や世界を提示するものかもしれない。だが、どんな学問・職業・生活にもオルタナティブ を探す試みは存在する。そんな、既存の枠組みの外側を旅する人々が集まり、意見を交換した。

A.
僕たちは、既存の枠組みの中では解消できない課題の解決や、生きづらさの解消を、誰にでもできるように、オルタナティブ な場を作るフォーマットを作り出せないかと、当時ぼんやり考えていた。

だが、<オルタナティブな場>を生成する技術のフォーマット化≒一般化/共有という試みはそれ自体、オルタナティブ=“別の”やり方を指す語と矛盾する試みのように思われる。

しかし、一般化とは、複数の特殊な要素から恣意的に共通項を取り出し、法則(ルール)として適用するものであるとしたら・・・

法則にさえ合致していれば内容次第で集合の性質や総体は幾らでも変化させることが可能であり、そこから別の(オルタナティブ?な)法則性/つながりを抽出し、別の領域に独自の集合を生成させることも原理上は可能ではないだろうか。(本当に?わからない。でも試してみる価値はある。)

こうした発想を元にオルタナティブ/既存の枠組みの外で、場の成立/人々の関係における新たな枠組みを生み出すための議論の生成フォーマットについて僕たちは考え始めた。

B.
ある日、僕たちは、「オルタナティブな場についてのイベントをやるから、参加して批評を書かないか?」という誘いを受けた。

『「?オルタナティブ?」持ち寄り鍋』と名付けられたこのイベントは、3名の主催者のいずれかから直接声をかけられ集まる招待制のイベントだ。

参加希望者は事前アンケートを受け、参加者全員とアンケート結果を共有する。アンケートの内容は、名前・活動・自身と”オルタナティブ”の関係・気になっていること・他の参加者にプレゼントできる知識/情報などである。

また、参加者たちは招待メールで<各種“オルタナティブ?“な実践スキルの共有>と<新たな企画をその場で作り上げること>を目的とした集まりであることを伝えられていた。(口頭での勧誘の場合は伝わっていないことも多々あるようだった。)

イベントは北池袋のスペース・くすのき荘で行われた。開始時刻18:00には参加者はほとんど集まっておらず(終わり際まで参加者が少しずつ増えていった)、準備もはじまったばかりであった。準備をしているうちに段々と人が増え、ガヤガヤと雑談をしていると順番に自己紹介をするとのアナウンスがあった。

私たちは机を囲み、時回りに自己紹介を始めた。制限時間などもなく、それぞれのプロフィールへの質問なども挙がった。そのためかなり長い時間を参加者の自己紹介を聞いて過ごした。

参加者の多くはひとつの組織、あるいは表現形式や活動様式に縛られずにマルチな活動をしているという共通点をもっていた。

その後、私たちは2つのグループに分かれディスカッションをしたが、ここでも何を話すのかすべてが参加者に委ねられており、発言者が自分の話した内容を付箋にひとことでまとめて紙に貼り付けていくことだけがルールとして決まっていた。一定の時間でディスカションは終了させられ、その内容を代表者が発表し、他のグループと共有した。そして次は3つのグループに分かれて話をしたが、15分ほどでイベントの終了時間が来てしまい、バタバタと片付けがはじまった。

ここまで思い起こして、イベント全体を俯瞰してみると、決まっていることが殆どないこと=偶然性・即興性、あるいは参加者の主体性・能力に(意図的かはともかく)重きが置かれていたことが特徴であるように思われる。

(イベントの趣旨・目的意識が共有されていない点、ディスカッションに共有された目的が設定されていない点、イベントの時間割やタスクが(結果的に)決まっていない点など。)

フォーマット化と新しい関係性の生成にとって、こうした積極的な偶然性との付き合い方の是非を考える必要があるだろう。
(果たしてこのイベントに成功という概念は存在するのだろうか?)

「複合的なものを知覚するとは、その構成要素がお互いにかくかくの関係にあるということを知覚することに他ならない。」(2)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


C.
鍋について考えてみよう。

まず、鍋とは具材を液体の中に入れ、その液体を加熱する調理法/プロセスと、その調理品/成果物を指す。つまり、鍋の概念の輪郭を描く外枠の要素は、<鍋(器)・水(液体)・熱(エネルギー)>であり、水と器を媒介としたエネルギー伝達=熱伝導こそが、その調理の仕組みである。具材は取り換え可能であるが、一般的な鍋には具材にも合理性=美味しい組み合わせがある。肉、野菜、出汁などがそれだ。

もうひとつ重要なことは、水の浸透性である。調理中、具材の中に水が浸透し、同様に水にも具材の構成物が溶け出していく。複数の具材が水を媒介とし混ざり合う。また熱によってもその性質が変化し、水自体も具材によって変化する。

その結果起こるのは鍋の中の全体としての一体化である。
美味しい鍋の出来上がり。

「人間が文化的存在であるのは、人間が本質的に技術的な存在だというまさにその限りにおいてです。人間はこの第三の技術的記憶に取り囲まれているからこそ、世代を跨いで経験を蓄積でき、それがしばしば文化と呼ばれるのです」(3)
ベルナール・スティグレール

D.
この企画『「?オルタナティブ?」持ち寄り鍋』を、この鍋の仕組みに添って理解していこう。

まず、器はイベントの形式、液体は共有テーマ、熱は個人の問題意識や共有タスク(ミッション)、そして具材は参加者に置き換えたい。

また、熱を得るために(古典的・アナログだが)ここでは火をモデルにして考えてみよう。火の起こし方は多種多様だが、火の維持の仕方はある程度限られる。火を絶やさないためには空気の通り道と薪や炭が必要となる。

鍋を美味しく調理するには、火は炎上しすぎてもいけないし、弱すぎてもいけないと言えるかもしれない。

この調理という技術的な問題を通して見えてくるのは、鍋=場を成立させることは、何をどの程度コントロールするか、どのようにコントロールするかの問題なのだということだ。

そして、鍋として美味しく完成するということは、その場を閉じること=バラバラであった素材を(互いに問題を共有した上での影響関係・応答関係におくという意味において)統一体として“一旦”纏め上げるということだろう。

今回のイベントでは、結果として目的意識が共有されていなかったため(イベントのはじめにアナウンスなどが必要だったかもしれない)、具材(参加者)と、辛うじて器(イベントの形式)が、時間割がうまくいかなかったが、自己紹介とグループ分けディスカッションが進行としてあったため、コントロールされていたといえる。つまり、それ以外の要素(共有のテーマやタスク)はコントロールされていなかった。

フォーマット作りを目的とするのであれば、誰でも使用でき、一定の成果があげられる、カリスマや独創性を必要としないコントロールの枠組みを作らなければならない。

このイベントは、まだコントロールがどう機能するかの実験段階だった。
テーマやタスクをコントロールしなかったことで、議論の場としてのまとまりや発展性には欠けたが、一方で参加者の日頃の問題意識は浮かび上がりやすかったように思える。

多面的な議論の生成によって新たな企画を生むためには、順序を踏まなければならない。それにはもちろん時間がかかる。

イベントにおいて、そのミッションは達成されなかったが、少なくとも普段は議論を交わさないような、離れた領域の人間の新たな繋がりは生成されていた。それは、新しい(オルタナティブな)場の種が撒かれたとも言えるだろうか?よく思い出せないが、イマ僕の周りには、その種の芽吹きを感じる出来事はいくつも起き始めている。ような気がする。

E.
オルタナティブな場は、閉じた統一体としての鍋の完成度と相反しないだろうか?

鍋を閉じることを望まなかったとしたらフォーマット作りは成立しないが、フォーマットが出来てしまえば回路の固定化を生んでしまう懸念がある。

はじめに述べたように、フォーマットというものには(それがある程度閉じているからこそ)無数のヴァリエーションを生み出す余地、フォーマット自体の展開の可能性が内在している。とも言える。(本当に?)

イベントの目的として掲げられていたミッションは

<オルタナティブな場/企画作りの実践スキルの共有>

<新たな企画をその場で立ち上げること>、

言い換えれば
<フォーマット作成>と<偶然・偶発・即興による活動の創出>

であるが、フォーマットは議論の生成の場に関わるもので、その成果としてその場とは別のところに芽吹くオルタナティブなアイディア/企画とは切り離して考えられるべきものだ。

一方で、フォーマット化とフォーマットの外側、言い換えれば一般化とそれに対するオルタナティヴは日常のどんな場面においても常にバランスを保ちながら共存している。

ここでいうフォーマットとは、その枠組みさえあれば、中身はある程度自由にしても半ば自動で機能する仕組みを指すはずだ。
たとえば、闇鍋には何が入っているかわからない鍋という他に、参加者がそれぞれ勝手に具材を持ち寄るため、結果としてどんな反応を起こすかが予測できないという要素と、参加者は何を口にしたかわからないという要素があるが、この闇鍋ですら、ある程度は鍋と水と熱という枠組みの要素で成立させることは出来る。

音楽で言えば、即興演奏もすべてが完全に自由なわけではなく、テンポやコード、あるいは抽象的な楽譜といった「ルール」と、演奏テクニックの「型」があるからこそ成立しており、その成果はすべて異なる。

仮に手法や進行によって似通ったものになったとしても、その成果から一般化されない特殊な演奏・展開を抜き出して、別のものとして発展させていくこともあり得る。現にジャズはそうした営為の中で枝分かれして現在も絶えず特殊な表現を生成している。

そう考えてみれば、フォーマットの一般化によって、逆に特殊性が炙り出される可能性がみえてくる事もあるかもしれない。今回も一人の提出した問題意識について、参加者が意見を述べる時間が最も多様性や可能性を感じさせる会話が続いていた。

「多くの、時には相容れない、また相容れる可能性すらない理論や記述が、いずれも適格な代替物として承認されるからには、真理についてのわれわれの考え方を再検討する必要がある。」(4)
ネルソン・グッドマン

F.
 オルタナティブな物事は、時代に関係なく常に存在する。

しかし近年オルタナティブという言葉がこうも多用されるのには理由があるのではないだろうか。

だとすれば、その理由とは様々な領域で既存のインフラ・方法論が既に破綻し、通用していないにも関わらず、未だに支配的な構造を保っていることで、その領域の文化や知、人間が困窮してしまっているという危機的状況に起因するとも考えられる。

 「近代科学は長らく、「とにかく専門分野に分けて、全部を後からつなぎ合わせればすべてが分かるんだ」という方法論を採ってきました。」(5)と雑誌WIREDに寄稿した記事で長沼伸一郎が語るように、近現代の知は、非常に細分化された専門による分業を推し進めていった。理想としては、あらゆる知見は相反せず、ひとつの真=答えを多角的に提出するはずだった。

 しかし現実は、同じ対象について分かれた知ごとに行き着く答えが、大げさに言えば別の物だった。複数の細分化された部分はひとつの世界像/全体ではなく、組み合わせ・枠組みごとに異なる複数の全体/世界像を形成した。視座によって事物への認識は変わる。

だからこそオルタナティブという言葉が方々で叫ばれている。

アートに関わる多くの人々が、別の/新たな知の、認識の在り方を探し続けている。複数の枠組みをつなぎ合わせた知の在り方で現実と向き合っていかなければならない。

しかしオルタナティブがオルタナティブであることは容易ではない。それは絶え間ない運動の生起と実験の継続によってのみ生み出されるのかもしれない。

引用文献
(1)カルロ・ギンズブルク『ピノッキオの眼』竹山博英訳 せりか書房 2001年
(2)ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳 岩波文庫 2003年
(3)ベルナール・スティグレール『偶有からの哲学』浅井幸夫訳 新評論 2009年
(4)ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』菅野盾樹訳 ちくま学芸文庫 2008年
(5)長沼伸一郎「Pascal & Tocqueville 「細分化不能」からの設計」『WIRED Spring 2017 Vol.27』 2017年

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