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音楽の所在 2.0

0. 同じ川に二度入る事は出来ない。

今のところ、人はタイムマシンを発明していない。

人は生まれて死ぬまで、限られた不可逆な時の流れに中で生きる。
そして過ぎ去った時を遡ることは我々には出来ない。

そればかりか、私たちは、ひとりひとりが異なる感覚で生きている。

我々は共に生きているようで、実は違う時の中で生きている。正確に、まったく同じ過去を思い出すことも、出来ないように思われる

音楽は、時間に構造を与え、流れていく時の感覚をつかむ装置だ。

時にその音の繋がりをふと耳にすることで、

時に演奏にあらゆるかたちで参与することで、

私たちはまったく同じ時間に居られるわけではないが、時間・空間の経験を共有できる。

その経験の、方法を保存できる。

音楽はその方法だ。




1893年、エリック・サティによって書かれた作品『Vexations』は、死後に弟子のロベール・キャビーによって遺作として発見され、1969年に刊行、発表された。

“嫌がらせ”という意味を持つこの楽曲は、同じモチーフ(演奏)を840回繰り返すという長大で奇妙な曲である。

タイトル通りの嫌がらせ。
しかし、私には、演奏という問題に強く訴えかける楽曲のようにも感じられる。

「Pour se jouer 840 fois de suite ce motif, il sera bpn dese pr’eparer au pr’ealable et dans le plus grand silence, par des immobilit’es s’erieuses(このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう)」


演奏に際してのサティによる注意書きには、このように書かれている。

一見するとただの嫌がらせにも見える作品だが、これを複製と反復の観点から見てみよう。

録音音楽は、いつも同じ音楽を私たちに与えてくれる。
だが、私たち人間の側は、常に同じではありえない。私たちのコンディションは常に変化している。

演奏者も然り、どんなに優れた音楽家でも厳密にまったく同じ演奏をすることは不可能だ。

どんなに精緻な機械でも刻一刻と変化する環境下で、同じ音の響きを与えることはできない。

環境が変化しなけば?それでも聴く者が変化する。お腹が空いたり、機嫌が悪かったり、頭が痛かったり。少し年老いたり。

したがってCDなどの複製だとしても、それは厳密に同じように聞かれることはありえない。(1877年に蓄音機が発表されている、つまりサティは機械による音の複製技術を知っている。)

そもそも音楽を聴く、時間の中で音の関係、連なりを追うこと自体が、聴く者を変化させること。一定にはさせないこと、なのだ。


『Vexations』は実際に演奏された例が幾度かある。

ジョン・ケージらによって演奏されたときは弾き終わるまでに18時間40分もの時間を要し、更に10人のピアニストと二人の協力者によって演奏された。

その事実からわかるように、この楽曲は独りで(それもサティの注意書きの条件を満たし)弾き切ることが不可能な長さに設定されている。

同じフレーズの執拗な反復、まったく同じ演奏を反復したほうが返ってその差異が際立つ。
音と音の関係が毎回微妙に変化する。

つまり、たった1つの反復され続けるモチーフから複製不可能な無数の演奏が出てくるという事態が起きる。

そして、この曲で前景化されるこれらの効果は、本来あらゆる音楽の内部でも起こっていることではないだろうか。

同じ“時”は二度とは来ない。
同じ川に、二度入る事は出来ない。

時が流れる限り、大いなる静寂の中にも音は存在し、肉体は動き、変化し続ける。
世界の時間に停止ボタンがあるとしても、停止したそこに時は存在し得ない。

しかし、同じ時の感覚(その変化の過程を)再現することはできる、それが音楽という構造物の持つ力なのだから。一種の不出来な(それゆえ完璧な)タイムマシン。


本当はどんな時でも音楽はそこにある。音が無いという状態はありえない。
しかし、大き過ぎるものは近くにあるとそれと気付かない・あるいは背景のように常に流れる音(自分の身体の音、街の空気の音、電子機器の発するノイズ)はそれがなくなったとき、初めてその存在に気付く。距離や習慣、認識の網目から生活音や時間の感覚は脱落していく。
ジョン・ケージ『4:33』が前景化した主題を拡大して解釈すれば、このように言うことも出来るだろう。
あまりにも有名なハーバード大学の無響室の逸話。
無響室で彼は二つの音を聴く。神経の働く高音と血流の低音。
無音はありえず、世界は音で満ちている。世界は物で満ちている。ここまでは良く語られる話だ。
たとえば、建築は木材などの素材を切り出し、強度と作用を持った目的のある空間を設計し、作り出す。(野宿は可能だが、そこには自分で生活にあった用途を遂げる場所を作り出さねばならない。)
しかし『4:33』において、それが音楽になる為には、聴衆が自らそこに自律した音の組織を見つけ出さなければ(というよりも作り出さなければ)ならない。(ピアノを開ける、楽譜をめくる、ピアノを閉じる、といった“楽譜”や“演奏会”といった規則をモチーフにしているのなら理解できるが。)ただし、その成果は偶然性によって片付けられてしまう。
つまり、内容の偶然性は問題(フレームを与えれば、いかなる音でも時間や空間を構成する音=音楽になり得るという点)ではなく、沈黙の4:33によって見つけ出されたのは、いま置かれている環境のベースにあり、そして常に聞き逃している音がどんなものか、またどのように時間を埋めているかを聴き取ることではないだろうか。


1995年に『Brown Sugar』、5年後の2000年に『Voodoo』というアルバムを発表したD’angeloの仕事はブラックミュージックの事件として今も記憶に新しい。
彼はVoodooの録音の際にドラマーのQuestlove(Ahmir Thompson)に「酔っ払ったように演奏してくれ」と頼んだという。
演奏家ならば誰もが知っていることだが、音は完全に同時に発生したとしても、聴く位置によって(録音するマイクの位置によって)絶対にズレが生じる。
また、同じフレーズを演奏しても、その微妙なタッチやニュアンスは厳密には同じになることは無く、完全な電子楽器においても、他の楽器の演奏との関係でニュアンスが変化して聞こえるものだ。しかし、それこそが音楽を演奏することの面白味であるし、演奏者の腕というのもその扱いにある。
録音された音は加工編集される過程でそのズレを一致させることが多々ある。R&BやHipHop、electroなどにおいてはループ(同じ音の素材を反復させる)を用いることも少なくない。
もちろんそういった仕事の中にも、あえて音をレイドバックさせて微妙にズラすことで独特の時間感覚を構成させるものや、ランダムに音を変化させるもの、生演奏独特のニュアンスを残すものも増え、優れた作品も多くあるが、生演奏に重きを置いた録音音源(更に機械的操作による反復にその特徴を置いたR&Bに位置付けられる作品)においてここまで徹底して反復を使用して反復を揺らがせたのは先に述べた『Vexations』によって示された問題を思い起こさせる。
もちろん決して『Vexations』と同じ構造の曲ではない。反復されない詩と歌があり、演奏も変化する。問題なのはそれが厳密に同期していないことで、ランダムな音の距離をあらかじめ示すことで、より強靭な反復を基盤として私たちの時間(フィーリング)を組織するところにある。
ジャンルを問わず、ポピュラーミュージックで多用されてきた“エイトビート”というパターンは、その単純な構造に反した複雑な再現不可能性を持つが故に古びることなく扱われてきた。JAZZで耳にする“フォービート”なども然りである。
D’angeloの仕事はその発表のタイミング、場所、強度において完璧かつ鮮烈であった。彼の仕事を期にネオソウルと呼ばれるジャンルが流行した後も、彼だけがネオソウルだったと一部の愛好家に語られる所以はそこにある。

ジャンルは事後的に与えられた分類。後付けされたレッテルに過ぎない。
音色や表面の加工ではなく、その問題意識の組み立て、発表のタイミング、あらゆる音の組成の厳密さにこそ、彼の仕事の本質があった。



音同士は本来バラバラに散らばっている。

それらを組み立てひとつの構成物にされた音楽も、各モチーフやパートは厳密には完璧に同期されているわけではなく、更に聴き手の鼓膜でどのように統合されるかは、人の身体条件、視聴環境、再生機器などによってさまざまである。
だからといって聴き手次第というわけではない。

どのように使われるかを厳密に操作し、形成し、それでもなお響きを結びつけるのを聴き手に委ねることが音楽を作るということであり、音楽を聴くということだろう。

聴かれ方はある程度、決定されているが、その中には決定し得ないほど無数の音の相互交感が広がっている。
音楽は私たちの中にあるのではない。私たちの主観の産物でもない。
音楽は常に外にあり、その構造を保ちながら、私たちによってあらゆる仕方で、時に演奏され、時に読まれ、時にボタンを押される事で、再生される。
それは、設計された時間の感覚を「再び生きる」装置である。

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