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心もよう

母が他界した。
その日は、数日前に記録的な豪雪があったとは思えない、雲間から日差しが射し、暖かな空だった。

僕が面会室に辿り着いた時、母は僕の顔を見て問いかけに答えてくれた。
僕は母の手を握り、一心になで、暖めた。
でも、母の脈拍は弱く、すでに手首では測れなかった。

今年の正月が過ぎた頃だっただろうか。
母は高い熱をだし、入院した。
肺炎だった。
ただ、入院後の経過もよく、数日で退院した。

春を迎えた頃、母がまた熱をだした。
これもまた、数日で退院した。

その後も、何度か熱を出して入院したが、数日で退院していた。
しかし季節がかわるにつれ、熱をだす回数が増え、間隔が短くなった。

その年の冬は、珍しく寒さが厳しく、各地に大雪を降らせた。
公共交通機関はことごとく運休し、高速道路も閉鎖された。
僕も仕事に行くため、歩く覚悟で自宅から大通りへ出る坂道を下った。
チェーンをタイヤに巻きつけたバスが、まるでソリのような音をたてて走ってた。

そんな日の午後、兄から電話があった。
母の容態が思わしくないらしい。
「なんとしても行く。」と頑なな僕を、「お前が死んでどうする。」と兄は嗜めた。
代わりに、通常は面会日ではない週末に、面会を特別に許すとの約束を、病院から得てくれた。

面会の日、母は笑顔で僕を迎えてくれた。
少し持ち直したらしい。
孫の話や、写真を見せたりで面会時間は過ぎたが、特別に延長してくださった。
母の少し疲れた様子を見て、「また必ず来るから。」と僕は母と約束し、部屋を出た。

翌日、仕事から帰ると兄から電話があり、「お前、付き添いするか?」と尋ねてきた。病院から勧められたらしい。
僕はその話にすぐに飛びついた。翌日出勤して事情を説明し、暫く休む事の了承を得た。
その足で帰宅し、出かける準備を整えた。

ところが、出かける直前にまた兄から電話があり、「面会室は底冷えがするので、母の症状が悪化するのではないか。」と心配し始めた。
そんなことになっては本末転倒なので、流石に僕も躊躇し、様子をみることになった。

出鼻をくじかれた僕は、準備した荷物を投げ出し、本を読むことにした。
しかしいくら読み返しても、最初の1ページめが頭に入らない。
本をめくれず、無限のループに陥っていた。

その時、電話が鳴り、兄から母の容態が急変したのですぐ帰るように言われた。
投げ出していた荷物を拾い、僕は故郷の母の元へ急いだ。


母は、僕が暖めている手を振り払い、両手を胸の前で抱え込む。
僕は、母の手が冷えないように、毛布と布団をかけてやる。
母が、毛布と布団を払って手を布団の外に出す。
僕が、その手を暖める。
また無限のループだったが、自宅で読もうとした本とは違い、どれだけそのループを繰り返しても、平気だった。

母に、寒くないかと聞けば「いいや。」と答え、しんどいかと聞けば「大丈夫。」と答える。
しかし、めいが、「瞬きしてない。」と言う。確かに瞬きしていない。
眼球になにかが溜まり、眼圧があがったため、まぶたが閉じられないのだそうだ。
現実はそこまで近づいてきていた。


無限のループを繰り返していた母の手が止まった。僕は暖め続けた。
母の呼吸が浅くなり始めた。
目は虚空を見つめたまま、瞬きしていない。
ゆっくりと石化してるみたいだ。

浅い呼吸の音だけが続いている。
母をずっと世話してくれていた姉が、「声は聞こえてるよ。」と言う。
確かに僕が呼びかけると、「うん。」とか「ああ。」と母が答える。
そんなやり取りが暫く続いた。

母の呼吸がため息のように聞こえたその時、姉が言った。
「もう最後になるから、まだ聞こえてるから、お別れをしんさい。」
姉が、兄が、耳元で「ありがとう。」と伝えた。
僕の番だ。
母の耳元で話す。
「産んでくれてありがとう。」

いつの間にか母のまぶたが閉じていた。
目尻から涙が溢れた。
そして、母は息を吸って、動かなくなった。

兄も、姉も、僕も、涙がとまらなかった。
「息を引き取る。」と言うが、そのとおりだった。

兄が、母の世話をずっとしてくれた姉に、感謝を告げた。
僕も、それにならった。
姉は首を振り、「お母さんだからできたんよ。」と泣きながら微笑んだ。


母を兄の家に連れて帰った。
布団に寝かされた母は、呼べば返事をしそうに思えた。
その夜、僕は母と同じ部屋で寝た。
母と一緒に眠るのは、子供の頃以来だった。

翌朝、母の親友のおばちゃんが、弔問に来た。
母を見て、「姉さん。早う起きんさい。」と繰り返す。
兄も僕も、おばちゃんらしいと笑った。

おばちゃんは、「やっぱり亡くなった日の天気は、その人の生き方が出るけぇ。」と言う。
「この間亡くなった誰某さんの時はもの凄く寒うて、葬儀に参列した者は心の中で思っとったで。」と僕達を笑わせる。
確かに今朝は、上着がいらないくらい暖かかった。


一頻り儀式が進み、母は骨壷に納まった。
兄の家に祭壇を組み、写真と並べて骨壷を置いた。
僕も自宅へ帰ることにした。

帰りの高速道路を走りながら、窓の外を見た。
山里にはまだ白い雪が積もり、澄んだ夕焼けに染まっていた。
僕はふと、母の故郷を思い出していた。

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