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INFPは幸せになれるのか?

INFPはどうしたら幸せになれるんだろうね?

ENFPの友人に聞かれ、咄嗟に何も言えなかった。
自分にとって完全な幸せ、完璧な「状態」を思い浮かべることはできるが、それはおとぎ話のように非現実的なのだ。
結局自分の内的世界(主観的現実?)でしか理想を実現できないのがINFPなのだろうか。

これから、二十数年しか生きていない私がとりあえず下した極端な結論と思考を書き連ねる。
断言口調が目立つが、私は単に自分を通して「INFP」を語っているに過ぎず、特に根拠はない。論理性も重視していない。巷に溢れる16タイプ性格診断が「MBTI」として不完全であること、またMBTI自体も学術的に確立されたものでないと分かった上で、あえてカテゴライズしている。

理想という言葉を多用するが、空想の中にあり地に足のつかない漠然とした「理想」のことだ。


結論

INFPは基本的に幸せになれない。物語や空想に自己投影して気を紛らわしつつ死を待つしかない。

大まかな「幸せ」への方途を3つ考えたが、それらはINFPが有する負の特性により全て否定されうる。


方法1 【Nの限界】

理想を手放して、平凡の中に幸せを見つけようと努力する

これは対処療法でしかない。
痛み止めで麻痺させ続けた患部が癌となって見つかるように、いつか何かを契機にして抑圧され続けた理想が爆発する時が来る。その時にはむしろ、平凡かつ無為に過ごした時間をひどく後悔するだろう。

たとえ平凡さに理想を置き、それが手に入ったとしても、「平凡」は思い描いた以上に無味乾燥で退屈だ。刺激を生み出すために新たな興味に踏み出そうとも、他者を巻き込む方法が分からずやるせなさに陥る。次第に殻に閉じ込もり、いつしかその日常を軽蔑し、自ら手放すような行動を選択してしまう。
全てを失って初めて、淡々とした日々や変わらない人間が傍にあることの多大な安心感と、それが幸福と呼べる何かであったことに気付くのだ。多くの場合、もう遅すぎるが。

理想は一つの臓器のように存在するため、いくら現実に生きることを試みようと、それを捨て去ることはできない。
そもそも、脳内に逃げ場所を失った人生を幸福と呼べるのだろうか?花園を様々な花の集まりとしか、星空を単なる恒星の集まりとしか見ることができない、物語や空想から見放された人生は幸福なのだろうか?


方法2 【Pの限界】

とことん理想を追う


理想は無限だが、金と体力は有限だ。
そもそも、INFPの理想は空想の域を出ず、実現不可能なものであることが多い。実現可能であったとしても、この世には人間の理想を完全に満たすものは存在しない。
どこまで行こうと、この世界は日常と非日常、退屈と刹那的な快楽の繰り返しでしかないのだ。

INFPはコツコツと理想を追えるほどマメではない。社会で心を殺して金稼ぎに猛進するにしろ、何かしら資格を取るにしろ、外国に移り住むにしろ、理想に近づく行動を試みたところでその楽観と怠惰さ、対立や競争の忌避、興味の散漫さ、実のないプライド等により往々にして思うようにいかない。INFPの平均年収がMBTIの中で最も低いのは、すなわちそういうことではないか。誰よりも金を稼ぐ必要がある性格なのに、誰よりも稼ぐのが苦手なのだ。

たとえ実現のために行動できたとしても、現実社会はINFPが思う以上に無機質かつ煩雑で、殺伐としている。「大人になる」という現象が「そういうものである」と何かを諦め続けることを意味するのならば、INFPにとってそんなに悲しいことはない。心を殺され続けてもなお理想を追求することは至難の業だろう。

方法3 【F、Iの限界】

何かを発信し、共感者・協力者を増やして理想に近づく

発信、他者への働きかけ。INFPが苦手とすることの一つだ。
INFPは他人に対して魅力的に何かを語ることが得意でない。言語という表現方法自体に限界があるのだろうか?考えていることは多く保有していても、そのままの純度で表現することができない。どんなに素晴らしく思えた発想でさえ、言語=論理化した途端に陳腐なものになってしまうのだ。
おそらくT(論理性)を発達させる必要があるが、果たしてINFPの抱く理想を論理的かつ魅力的に他者に伝えることは可能なのだろうか?そもそもINFPが抱く理想は往々にして「自分が」どうなるかであり、利他性や公共性が低い。共感者は現れるのだろうか?

加えて他者からの理解を諦めていたり、理解される必要性すら感じていない場合が多い。自分の感情や思考を他者に共有・発信することはINFPにとって多大なエネルギーを要する。相手の時間と自分のエネルギーを消費した上で共感や理解を得られなかった場合や、むしろマイナスに働いた場合のリスクや精神ダメージを考えると、語ることはあまりに非生産的だ。心からの興味を示し、共感してくれる人にしか話せないのだ。

ENFPもまた理想主義的であるが、彼らは比較的理想を実現しやすいように思える。対人関係において、どこまでも行為者であるからだ。私から見たENFPは、非論理的な精神的事象を魅力的に他者に語ることができ、自己開示が得意だ。彼らは変わり者だが、周囲の人間を彼らのペースに巻き込むことができるため自然と共感者や彼らを慕う友人が集まる。彼らは自らにとって心地の良い環境を「作り出す」ことができる。(INFPにとってそれは運頼みだ。)
やや理解しがたいが、彼らの理想には(往々にして多数の)他者の存在が不可欠である。彼らは基本的に自らを慕う人間が好きだ。おそらく彼らの思考やアイデアは、他者に語り、受け入れられて初めて価値あるものとなるのだろう。
NFPの気質によって理想の実現や「幸せ」への道すじには苦しみが伴っても、人間関係や助け手に恵まれるのがENFPであると思う。彼らは「人間を好き」であるから、それに恵まれる。より厭世的な特性を有するINFPは、理解者を欲しつつもコミュニケーションを相手に委ね、ジレンマを抱えて生きるのだ。



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とにかく、理想主義者が幸せを手に入れるのは難しいのではないか。

ただ、平凡さや不幸自体を物語に包括し、気を紛らわすことはできる。無理に映画や小説にする必要はない。ただ脳内でナレーションを付けたり、好みのキャラクターに擬態して現実を過ごせば良いのだ。
また、旅行や読書など「理想」の疑似体験をすることによっても気が紛れるだろう。特に旅行は記憶として色濃く脳裏に刻まれるため、長期的な効果が望める。


脳内にしか救いがないような人生だが、かと言って、途中で放り出して死ぬこともできない。理想主義の弊害として、いつか自らの望んだ通りに物事が運ぶ可能性を捨て切れないのだ。


INFPはどうやって生きればいいのか。
空想は美しいが、それを表現する方法を知らない。
人の干渉を嫌うが、完全なる他者の不在に耐えることができない。
理想と適合しなかった他者を切り捨てるたびに、どこか恐ろしい気持ちになる。
私は周囲の大切な人さえ、自分の理想を実現するための道具として捉えているのではないか?
いつか見透かされて、皆去っていくのではないか?


INFPだけで理想郷を作って住んだらどうだろう?
自然豊かな湖水地方。庭のついた家が建ち並び、街角にはバラの花が咲く。皆何かを競うことなく自給自足を行い、晴耕雨読の生活を楽しむ、果たして本当に?

誰がバラの花に毎日水をやるのか。彼らは花を枯らして初めて、美しい花は世話を怠ると枯れてしまうことを思い出す。
農耕。概念としては魅力的だが、実際は地道な泥作業と試行錯誤の繰り返しだ。どこに根気良く作物の面倒を見続ける人間がいるのだろうか。晴耕雨読?晴れた日に早朝から畑を耕しに行くINFPがいるだろうか?彼らは晴れであることにすら気付かず昼過ぎまで寝ているだろう。
枯れたバラと荒廃した畑、崩れかけた家がINFP村の成れの果てだ。

想像しただけで残酷な結末。
皆最後まで不満を言わず(言えず)、すれ違えば気付かないふり、もしくは曖昧な笑みでお辞儀をし、ひとり、またひとりと夜の間に消えている。最終的に数人は残るが、彼らも本当は去りたがっている。顔色を伺いつつ時機を逃し、去るに去れなくなったのだ。

INFPは大抵他者に対して善良であるが、それはきっと自分の内面にしか関心がないことの裏返しだ。心優しく、痛みを抱えた他者に寄り添うが、それすら理想を投影しているだけなのだろうか?どこまでも利他的に見えて、誰よりも利己的なのだろうか?


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(こんな感じでINFPのネガティブ面ばっかり取り沙汰したけど、メンタル落ちたときにこれ読んだら飛び降りちゃいそう。
私は自分の短所を話す方が得意だから仕方ないのかな。いつかINFPの良さもうまく表現できるようになったらいいな~)
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まあ、まだ若いから、私は色々試すんだけどね。

宗教はその一つ。カトリックが持つ静謐さのように、完全なものや神聖なものへの憧れは、きっと宗教によって補われる。そう思っている。
芸術や精神世界への傾倒はきっと避けられないだろう。

また、この文章では幸せを「理想の実現」として捉えているが、果たして本当にそうなのだろうか。幸せを高尚なものと捉えている限り、永遠に「幸せ」にはなれないのではないか。雨宿りの場所を求めて友人と笑いながら走る時、親戚の子と小さな両手いっぱいに花を摘む時、亡くなった人の話をして泣いてしまう時、誰かの体温を感じながら眠りにつく時、全部確かな「幸せ」であるはずなのに、その有限性や不完全さにばかり目を向けて、受け取ろうとしないのは誰か?過ぎ去ったものや手放したもの、手に入らないものにばかり幸せを感じてしまうのはなぜだろうか?
理想を介さずに世界を見ることはできないのだろうか?




ーあとは雑記ー

私が死ぬ前はきっとこんな感じ。裏寂しく無機質な病棟。ひっきりなしに鳴るナースコールと老人のうめき声の中で、ひたすら深い想像の海に落ちる

ーー
暖炉の灯と揺り椅子だけが優しく揺れる夜。
猫の毛が絡んだピンクの絨毯、編みかけのカーディガン、小さなもみの木に飾られた、きらきら光るクリスマスのオーナメント。
窓に映る雪はどこまでも白くて、真夜中の部屋はまるで明け方みたいにぼんやり明るい。
なんだか14歳だったあの夜みたいね。そう、雪がたくさん積もったあの夜。みんなが寝静まった家をこっそり抜け出して、私だけの街、不思議な白さの中をどこまでも歩いた。ひんやりとした孤独は質量を増し、なんでか急に心細くなって、慌てて両親とうさぎの眠る家に引き返したっけ。やっぱりお母さんだけは気づいてて、翌朝叱られちゃったけど。
もう誰もいないのね。あの可愛いお家も売りに出されて
夜が更け、わたしの屋根にも雪が降り積む時刻が来る。彼女が好きだったトロイメライを聴きながら、ホットミルクをちびちび飲んで、遠い遠い冬の日に思いを馳せながら眠りにつくの。

ー 点滴の垂れる音。目を開くと薄暗く染みのついた無機質な天井。体に絡みついた無数の管が私を生かす。存在しない日々を夢見ながら一人で死を待つだけ。これで終わり。



「狂王」として知られるルートヴィヒ二世は、神話を体現した美しい城やワーグナーの音楽に心酔し、巨額を費やした挙句気が触れて水死した。
彼が唯一心を許した女性であったオーストリア皇后、エリーザベトは言った。
「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」
醒めない夢を見ていた彼の目に映る幻影はどんなに美しく、悲しいものだっただろうか。

皮肉なことに、彼が心血を注いだ彼だけの美しい城はドイツの観光名所となり、彼がどこまでも忌避した人間達が今日も彼の世界に土足で踏み入る。
「私が死んだらこの城を破壊せよ」この遺言は蹂躙され続ける。
彼はきっと、どこまでも救われていた。そしてどこまでも救いがない。

死人に口なし、理想主義者に人望なし、理想主義者に救いなし、なのか。


※彼は唯一の理解者だった(美少年ばかり侍らせて結婚しようとしないルートヴィヒに自分の妹を差し出そうとまでした)エリーザベトにすら、過度な自分勝手さで見限られている。INFPは特に人望を失わないよう努力すべきだろう。失った人望をなかなか取り返すことができないのが内向型だと思うから。

(あまり関係ないけれど、エリーザベトはかなりの美人で、ルートヴィヒも容姿端麗として有名だった。
世界史の中で容姿端麗と言えば、ラファエロやアレクセイ辺りが思い浮かぶ。美しい人は夭折したり、儚い運命を辿りがちだ。しかし醜く生きながらえるよりは良いような気がする。執着は私たちを生や美から遠ざけるからだ。)


ーラファエロの絵を見てほしい!ー

高校三年の12月。
自習時間になるはずだった7限目、一枚の藁半紙が配られた。
「皆さんには、この紙に、日本史・世界史の『推し』を書いていただきます。」
いつも黒い服を纏った、素性の知れない古典の女教師。センター試験間近に顰蹙を買いかねない提案も、彼女の口から発されると説得力を持って受け入れられた。(彼女は少なくない数の女生徒たちから崇拝レベルに慕われていた。)

皆が数十分で切り上げ自習へ移る中、私はまる50分掛けて出来の悪いラファエロを提出した。
私の悪い癖だ。どうにも納得できず、その日の深夜に描き直した。スマートフォンの画面をちまちま拡大すると意思を持った彼の筆跡が現れる。それを雑紙に書き写した。鉛筆は彼が憑依したかのように動いた。深夜三時、雑記帳の上でそれは完結した。

褒めてくれたのは、隣の席の有紗ちゃんだけだった。
「これ、共同作業だったの!」
彼女はにやりと笑った。


終わり


追記
コメントで、INFPが幸せになる方法の一つは表現力を磨くことではないかと言ってくれた方がいた。
いいねもそうだけど、コメントって嬉しい。スマホのメモ帳に書き留めていただけの文章をノートに公開しようと思ったのも、多分知らない誰かに読んでほしかったからだ。なるほど、そう考えると、確かに表現は一つの救いと言えるかもしれない。ツイッターは好きだし、ノートも好き。声を出さなくても聞いてもらえて、一番感情の鮮度が高いときに表せる、表現形態が自分に合ってるんだろう。
文章のみならず、やはり理想主義者は芸術や文学との親和性が高い気がする。ピアノ、絵、文章、何をしたわけでもないのに昔からある程度うまくいく。努力や継続が苦手で何一つ極めることができていないけど。
思えば生まれてこの方、コツコツ努力したことがあまり思い浮かばない。INFPは継続や努力を人生の主軸に置くべきなんだろう。人間関係や人望も継続や努力の産物だから。あーあ、やってらんない。

コメントの人は、この世に正解はないのではなく、私はこの世のあらゆることが正解だと思っています。と書いてくれた。私はその言葉が好きになったし、それを見て、私が昔交際相手との関係で悩んでいた時期にクリスチャンの友人が言ってくれた言葉を思い出した。
「もも、今日は話してくれてありがとう。
考えたら考えるほど難しいけど、きっと人生は綱渡りみたいなものじゃなくて、広い草原のような気がするから、一つ一つの判断が恐れずにできるように祈ってるよ!」
彼のこの言葉は辛い時期に何度か私を助けてくれた。本物の言葉は理解できなくても少しだけ分かるし、理屈でなく自分の中の何かが確かにそれを受け止めているものだと思う。
私も文章や言葉で人を救うことができたら、そんなに嬉しいことはないかも。それも、「表現力を磨くこと」の一つなのかもしれない。

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