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憂国を読んで。「生の不確実性」について


この、埼玉との県境近くの小さな部屋で、夜を一人で過ごすのが怖い。
一人でいるということは即ち、自分の過去や未来が、私だけの肩にのしかかってくるということだ。

何一つ確かなことがない今の生活で、唯一確かであったはずの過去ですら、何度も取り出して眺めているうちに次第に薄れ、不確実さを増していく。自身の記憶ですら主観的なものに過ぎない。歴史がそうであったように。

ただ、私はこの恐怖という感情でしか、もはや生の実感を抱くことができないのかもしれない、とも思う。
幼い頃のように、全ての事象に対して純粋で刹那的な感情を抱くことはもはやできなくなった。
今、私を生に繋ぎ止めるのは、生への恐怖なのかも知れない。

幼少期から親や教師、大人たちを絶対的な存在と捉えてきた。以前の交際相手も、私にとっては全てだった。
しかし、私は自ら何者かにならなければならない。他者に自らの価値を委ねてはいけない。自らの存在のうちで、他者に包括された部分を取り戻さなければ、いつか恐怖に飲み込まれてしまう。


他者に絶対性を求めてはいけない。
戦後、天皇崇拝がいとも簡単に崩れたように、人生において、一見確実に見えるものは幻想であるからだ。
それならば、私は一生救われないのだろうか?一生不確実さに怯えつつ、夜を過ごすのだろうか?

確実さを失った人間はどうなるのか?

あるものの絶対性を信奉する者は幸いだ。しかし、喪失された場合はどうなる?

絶対性を帯びたもの、即ち大義とは、個人の物語に包括されるべきであるように思う。というか、その絶対性が個人の中で失われた時点で、もはや幻想や物語としてしか、それは存在し得ないのではないだろうか。
結局のところ、大義の構成員は個人だ。

三島由紀夫は、大義を失った日本を嘆いた。
そして、自らの小説や生き方にそれを再建し、自刃によりその象徴となることで自らを救おうとした。
大義なき時代においては、大義を現在の文脈において再建するしかない。
絶対性の不在に苦しむ者は、自らの中にそれを再建することでしか救われない。

しかし、それを外界に有形のものとして放出した時点でその絶対性は失われる。
つまり、絶対性は内的世界にしか存在し得ないものであり、他者の内的世界において自らを絶対化すること、これが自らを救う方法なのではないか。


嫌な話だが、自らを他者の中で絶対化する上で、最もインスタントな方法は何だろうか?女性にとって。

私はそれでしか、救われないのかもしれない。

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