『ホモ・デウス(下)』感想|現代社会の前提を追求し、未来を問いかける本
ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『ホモ・デウス(下)』をやっと読み終わった……!
間が空いてしまって(上)の内容を忘れた気がする。
ということで、おさらい。私の(上)の感想はこんな感じ。
(下)も予想と違わず、めっちゃ良かった!
なんなら(上)より興味深いくらいかも。
大まかな内容
(下)は第3部だけかと思いきや、第2部の続きからだった。
ざっくりすぎる要約を以下にメモする。
第6章 現代の契約
資本主義は宗教である
経済成長を信じることは、本来当たり前にできることではない
成長は進化の過程や世界の仕組みに反する
人類は力と引き換えに意味を捨てたが、道徳は維持されている
なぜなら、新たな宗教(人間至上主義)が台頭したからだ
第7章 人間至上主義
人間至上主義においては神がどうこうではなく「私がどう思うか」が1番大事
内面を見ようとする
有権者は内なる声に耳を傾けて投票し、顧客は常に正しい
人間至上主義は、分派として社会主義的人間主義と進化論的な人間至上主義を生んだ(ソ連・ナチスなどを含む)
正統派の人間至上主義は「自由主義的な人間至上主義」「自由主義」として知られる
80年の月日と恐ろしい世界戦争を経て、ようやく自由主義が世界を征服した
第3部 ホモ・サピエンスによる制御が不能になる
第8章 研究室の時限爆弾
第9章 知能と意識の大いなる分離
第10章 意識の大海
第11章 データ教
本当に自由意志はあるのか?
単一の自己(アイデンティティ)は存在するのか?
少なくとも「経験する自己」と「物語る自己」がある
人生を意味づけたいから「物語る自己」がこじつける
テクノロジーの発展によって多くの人間の価値が下がり、無用になる
無用者階級とエリート層に分かれ、カーストが生み出される
その時に出現するのはテクノ人間至上主義なのかも
テクノ人間至上主義のジレンマは
「人類の意志がこの世界で最も重要なものだから、意志を制御・デザインできるテクノロジーを開発させようとする。だがもし制御できるようになったら、その能力でどうすればよいかわからない。神聖な人間もデザイナー製品になってしまうから」
というもの
欲望と経験に取って代わる有力候補はデータ
新たな宗教「データ教」が生まれる可能性
人間はデータ処理システムの1つでしかない
怖いかもしれないが、既に我々はデータを記録・アップ・シェアしている
人類は広大なデータフローの中の小波でしかないのかもしれない
最後に、この重要な3つの問いを考え続けてほしい
……というような内容だ。
注目した部分5つ
① 環境問題への問題意識
環境問題についてあまりに楽観的すぎる人類への皮肉に、超絶共感。
『人新世の資本論』を読んだ時にも思ったが、待ったなしの問題なのだ。
斎藤幸平氏の『人新世界の資本論』の感想noteはこちら。
人類の寿命が100年ぽっちしかないのも原因かもしれない。
「私が死ぬまではとりあえず大丈夫」と思うから、大きな危機感を持てないのだろう。
個人でできることだけでなく何かしらの活動をしていきたいが、何を誰にどのように働きかければ解決するのか皆目見当もつかない状況だ。
② 教育が難題、大衆の暇つぶし
マジでそう。
「日本の教育が時代に合っていない」ということは依然として巨大な問題であるものの(これはまた別の話)、では欧米や海外諸国が完全に有益な方法を取れているか?……というのも甚だ疑問である。
ハラリ氏は
「学生時代と社会人時代に人生を分けることが無意味になる」
「一生を通して学び続け変わり続けることになるが、そうできない人間も出てくるだろう」
と主張する。
この兆しは既に見えていると思う。
日本は特に新卒採用・終身雇用が一般的だった。だが最近は、その正統ルートから外れたり限界を感じたりして、転職・起業・学び直し・再出発をする人が増えてきている。
数年で常識が大きく変わることもある現代では、学んで知識をアップデートできない人はすぐに付いていけなくなる。この傾向は進むだろう。
当然、こういう問題が出てくる。人類にとって退屈は敵だからだ。
たとえばベーシックインカムによって身の回りのことが物質的に何不自由なくなったとしても、人は何かをしたがるだろう。
娯楽が昔よりどんどん拡大しているように、更にエンターテインメント事業が増える可能性もある。
エリート層への不満が溢れて治安が悪くなったり、現実よりもVR(バーチャルリアリティ)の比重が上がったりするかもしれない。
③「善いから選択した」は誤り
これらの記述には「なるほど」と思った。
確かに、私たちは
「人類は正しい道・より良い道を選んできたのだ」
「過去や歴史から学び、賢く選択したのだ」
と考える。
だが、実際はそうではない。
ここ数年の間で繰り返されている戦争・紛争・対立・差別などを見るにつけ、人類は先史時代から何も変わっていないのだと感じる。
より合理的で、よりその時代の人々に都合が良い方向へ変わっていく。
ただそれだけなのだ。
良くも悪くも、これは覚えておきたい。
④ 複雑すぎる現代社会
もう本当に、この点には完全同意である。
Twitter(現X)などで陰謀論を見るにつけ、
「なんとも単純な思考の持ち主だなぁ……そんなわけないでしょ」
と呟いてしまう。
多分、誰もこの世の全てについて理解していない。
現代の地球上で1番知恵と力を持っているのは、科学者か? それとも米軍上層部だろうか? それでもおそらく不十分だ。
確かに、陰謀論を唱えたくなる気持ちは分からないでもない。そうした白黒思考に帰結するなら陰謀を企てる悪を断罪すればいいだけで、とても簡単だからだ。
でも、現実にはそうもいかないから難しいわけで。
まるで雁字搦めになった糸のよう。1つ1つ面倒でもほぐしていかないと、全体像をつかむことさえできないのだ。
つい乗っかりたくなるゼロ百思考を見つけたら、思い出してほしい。
⑤ イデオロギーや社会制度の制約を可視化し緩めれば、考え方も広くなる
うーん、本当に大事なこと。
私たちの思考も行動も、社会や社会に蔓延るイデオロギーから自由になることができない。
とは言え、
「この主張の根底にはこういった概念があり、それらはどういう道筋で採用されることになったのか」
「なぜ今私はこうしたのか? ○と○という理由からこう動いた?」
と1つずつ明らかにしていけば、違う選択肢や可能性に目を向けることもできるのだ。
おそらく社会学と似たようなもの。社会を構成する要素や背景について考えていくからこそ、未来に生かせるかもしれない……と思う。
メディアによく登場する一部の社会学者のせいで
「なんて冷たい学問だ」
「人間らしい感情がないのか」
などと揶揄されることもあるが、お門違いである。
そもそも「感情のある学問」というのはほとんどないし、あったとしたら余計に危ないだろう。学術は人間の感情とは別であるべきだ。
私はこれからも、モノやコトの奥にあるものを探っていきたい。
今後人類が何をどのようにしたほうがいいのか、ヒントがあると思うから。
感想
ものすごいなー! いや、本当に面白い。
生きている間に、知能がしっかりしているうちに、読めてよかった。
いくつかの観点から感想を整理し、本の内容とともに振り返ってみる。
まさにこういう内容を研究したい
私は死ぬまでに全てを知りたいのだが、どうやら難しそうだ。
範囲を広げるのは悪いことではないがついつい広げがちだから、少し絞らなきゃ……とは思っていた。
そういう意味で、学びたい分野の目安が少しついたかも。
この本で取り上げられていた、今後の方向性に大きく関与しそうな生命科学・テクノロジー(AIやデータ収集系)などだ。
物理もきちんと知りたいのだけど、残念ながら私にとって非常に難しそう。少しだけに留め、こちら方面にもっと目を向けて行こう。
データ×整理収納
以前、考えたことがあった。
「整理収納アドバイザーは人からAIで代替可能か?」と。
その時私が発想したのは以下だ。
もし家の中の物全てがデータになれば、自分が物を使った日時・頻度・使用時間などが分かる。
顔認識だけでなく心拍数や脳波も測ってデータ化できるなら、物を手に取ったり目にしたりした時に物への愛着度合いも判断できる。
それらのデータを総合的に分析すれば、手放して問題ない物・手元に置くべき物が分かるだろう。
家の中の総量基準(物を収納の何%に収めたいか)をあらかじめ指定しておけば、捨てる物を自動で選んでくれるかもしれない。
人に共感してほしい場合には人間のアドバイザーが必要かもしれないが、うまく相槌を打ってくれるAIで事足りる場合もあるだろう。
そうなれば、代替可能……というわけだ。
データ×タスクシュート
そもそもタスクシュートは「ログ(行動記録)を取る」ことに重きを置いているから、データ至上主義に近いかもしれない。
いや、データ至上主義についての考え方はともかく、自分の行動をデータにしていることには変わりない。
自分で「記録する」ひと手間は必要だが、監視カメラによらずとも行動をデータ化することは可能なのだ。
ただ、私が思うにタスクシュート協会はデータ至上主義ではなく、現代社会で常識とされるヒューマニズム(人間至上主義)を前提としている。
なので「データに取って代わられることを押し進めているの?」と不安がらなくて大丈夫だと思う。
また、本書に出てきた「経験する自己と物語る自己」のあり方は、まさにタスクシュートで記録していると実感できる。
具体例としては、物語る自己が
「健康に良い行動をしたいから、明日の朝は30分ウォーキングしよう」
と考えたとする。翌朝になってみたら経験する自己が言うのだ。
「なんだか眠いし面倒だし、歩くのはやめておこうかな」
と。
こういった経験をしたことがある人は多いのではないか? 自己の中に異なる意見が存在するのである。
私の長年の問いが一部解決?
中学生の頃から、こう疑問に思っていた。
「人間の行動は遺伝によるのか、環境か、意思か?」
ずっと考え続けてきたけれど、複数分野を深く学んで繋げないことには回答できないと思い、今まで保留してきた。
しかしこの本によれば、そもそもその疑問が成立しないかもしれない。自由意思というものが存在しない可能性があるからだ。何たること……!
「全てがデータ」という前提で言えば、遺伝子は人体の中のデータだし、環境は人体の外のデータだ。(環境の中には人間関係など、人が関与する余地のあるものも存在する)
まだまだ疑問は尽きないが、この話は自分の中で何となくひと区切りついたような気もする。
英語の必要性を痛感
それにしても
「誰かが翻訳しないとこの内容を読むことができないなんて……」
と痛感した。こういう研究者の書籍が翻訳なしで読めたらいいのに、なんともどかしいのだろう。
英語学習にもっと取り組むべきか?
今はDuolingoで細々とやっているだけだが、多読も始めようかな。論文はたまに英語で読む機会があるけど、ちんぷんかんぷんでDeepLに頼っている。
今後の課題にしてみよう。
『ホモ・デウス(下)』について自分なりにまとめてみた。これは私の感じ方でしかないから、1回読んでみてほしい!
正直100%は理解していないかもしれないし、何より語り合いたい。
このページが分かりやすいかも。色々な関連リンクが貼ってあるので、読むほどではないが気になる……という方もぜひ。
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