お絵かきと私(超めちゃくちゃ死ぬほど気色悪い自己分析結果について)
「明日は休みだから〇〇(キャラクター)を描き放題だ! やったあ!」
ふと、そう思っている自分に気付いて疑問を持った。
「絵を描き放題」で喜ぶなら分かる。休日に使える時間は休日でない日の何倍もあって、如何に絵を描く時間を捻出できるか四苦八苦する日々からすれば、まさに「描き放題」である。最高だ。幸せだ。
だが、「〇〇を描き放題」という喜び方は違う。絵を描き放題で喜んでいるわけではなく、〇〇という特定のキャラクターを描き放題であることに喜んでいる。これはなぜか? 両者は全く別物だ。
思い返すに、そういう感覚を持ったのは初めてかもしれない。過去にそういった記憶はない。
私は絵を描くという行為そのものが好きなのであって、描く対象によってその楽しさに差が生じることはない。最近はもっぱら人間のキャラクターを描いているが、以前はロボットをよく描いていたし、今でも外で退屈になれば手帳にそのへんの景色を描いて遊ぶ。
描くこと自体が楽しいから、描く対象が何であれそれは変わらない。
ゆえに、「特定のキャラクターを描き放題!」という喜び方は私にしては異質だ。この感覚の正体は何か。
※※※この先、大変気色悪い内容です。読んでも引かない自信がある方のみお進みください。※※※
ところで話は変わるが、性行為の絵を何枚か描いて、これまたここ最近でふと思ったことがある。
本当に唐突なひらめきで、あまりにも気持ち悪い発想だと自分でドン引きしたのだが、興味深かったので少し考えてみると、少なくとも私に限った自己分析としては的を射ているような気がしてならない。
つまり少なくとも私にとって、「絵を、特に人間を描くという行為は、性行為と同義」なのではないか。
例え性行為を描写していない服を着た健全な絵でも、今の私の実力だと人間を描く際に服の下を透視する。ここにこう体があるから服はこうなるはずだ、という計算を行う。実際に裸体を描いてから服を描く場合もあるし、いきなり服を描く場合でも頭の中では人体の存在をシミュレートしている。
裸の絵なら言わずもがなで、むしろ服で隠せない分、解剖学上の違和感を徹底的に潰す必要がある。線を引いては消しゴムで削り、また線を足して、違和感を修正し形を整えてゆく。これは対象の肉体をじっくりと観察しているに等しい。
それに通常、既存のキャラクターを描く二次創作においては、権利元がキャラクターの裸体を世に出すことはまずない。服を着ている状態がデフォルトだ。つまりそのキャラクターの裸を描くということは、描き手が脱がせているということに他ならない。
肉感の表現もそうだ。肉の付いた部位は柔らかそうに、骨の出た部位は硬そうに、手で触れた感触が見た側に伝わるように、美しく、描く。
これは絵の違和感を潰すという話にも繋がる。ものの振る舞い方は素材の材質によって変わるので、豊満な肉がどう垂れるか、長い髪がどう広がるかという現実的な描写をするには、想像し尽くす必要がある。
想像というか、本物が手元にあればそれを活用する。人体はさておき服なんかは実物を使ってよく描く。それが無理な場合、過去に触れた記憶を思い出すよう努める。記憶を元にしたシミュレーションを実行する。
どんな手触り、感触だったか、触れた経験のないものならそうはいかないが、一度でも経験があるものなら、確かに自分の中に情報が存在するわけだ。正確に思い出せるかどうかはまた別問題だが、記憶を引き出せた場合、絵を描きながら、脳内では過去の本物の経験を再生することになる。
相手の未知のベールを脱がせ、じっくりと観察して、手で触れる。
これは、性行為の手順と同じではないか。
そして性行為の描写を描いたならば、それはもう、性行為のシミュレーションそのものと言えるのではないか。
他の絵描きについては知らないが、少なくとも私は、どんなに性的な絵でも描きながら勃起することはない。どんなにエロいと思っても、描いている最中は沈黙を守っている。
だが、個人的に満足いくまで描き込んで完成させた後、私は短期間の燃え尽き症候群のような状態に陥る。絵を描くことは楽しいはずだが、急に没入できなくなって、ペンを置く。
これは達成感と満足感によって引き起こされる状態だと思っていたが、絵を描くことが性行為と同義だとするならば、これは俗に言う賢者タイムなのではないか。勃起も射精も経ていないが、そう考えると辻褄が合ってしまう気がする。
※※※この先、凄まじく気色悪い内容です。さすがにブラウザバックをお勧めします。※※※
絵を描くことで、私は描いている対象のキャラクターと精神的な性行為をしている気がする。
これまた極めて気色悪い話題に触れるが、私は現実での性行為が特に好きでない。あまり気持ちいいと思わない。むしろ肉体的な接触による物理的な快楽よりも、他者とこれ以上ないほど深く繋がっているという事実によって精神が満たされる、精神的な心地よさのほうが好きだ。そこには勃起も射精も必要ない。無くても、満足に至ることができる。
だからこそ、私は絵を描くだけで、性行為をしている気になれるのかもしれない。肉体同士の現実的な接触は必要なく、精神だけならば個人で完結できる。
だからこの発想は、「〇〇を描き放題」で喜ぶ理由に繋がっている気がする。
「休日だから〇〇を描き放題」とはつまり、「休日だから〇〇と一日中セックスし放題」と同義なのではないか。
なんておぞましい発想だろう。私はなんて気色の悪い人間だろう。
でもまあ、誰かに迷惑をかけるわけではないし、別にいいか。
以上、おわり。
以下、おまけ。
この感覚の分析を「私にとって」と書き始めたが、以上のことは、絵描き全てに共通する気もする。
何も人間を描く場合に限った話ではない。無機物や動植物でも同じである。絵の基本は観察することであり、まずは徹底的に見る。教室なんかで絵を描くと、経験が浅い頃に先生から絶対に言われる言葉はこれだ。「よく見て描きなさい」。
絵においてリアルさは必ずしも正義ではないが、本物を忠実に描けることはスタートラインだ。描き手の味というものはその上に乗ってくる。
だからもっとリアルに描くために、徹底的に対象を知ろうとする。見て、触れて、嗅いで、可能なら舐めて、味わって、対象の全てを知り尽くそうと努める。
かの岸辺露伴は康一くんの前でクモを舐めて「変わった人」と評されたが、絵を描く人間なら割と普通だと思う。実際に舐めるのはちょっと衛生的に私は真似できないが、味も知っておきたいという感覚は理解できる。
だから絵描きは、みーんな、カンバスの中でセックスしている変態と言える。
本題の内容がキモすぎて、おまけのオチが弱すぎる。カバーできない。だめだこりゃ。おれは死んだほうがいいかもしれない。