戒厳信仰
伝統は守られるべきだ。しかし、新しきを受け入れなければ伝統は死ぬ。
非常に難しい課題だ。
伝統とは古き良き日本の山村であったり、神仏に祈ることであったり、日本人に心そのものであったり、多様である。ある者は伝統を受け継ぐ事を良しとし、ある者は伝統とは古臭い悪習であると言う。しかし我々の考えに関わらず、近年の伝統は非常に薄弱なものになって来ていると感じる。
例えば新大久保は既に伝統を失っている。ミニスカートの少女がキャリーケース片手にゴロゴロと狭い歩道を闊歩し、付き従う少年はメイクで整えた口をへの字に曲げて不満そうであったりする。別にこれは女のミニスカートをはしたないと断じている訳ではないし、男のメイクを非難している訳でもない。ただ、そこに伝統のカケラは見えない。これが現代の日本らしさと言われればその通りなのだが、それではまるで隣国の劣化コピーだ。やるならばもっと上手くやれと思う。茶の湯は、侘び寂びは、どこへ行ったのか。
伝統を手放しに賛称している訳ではない。むしろ現代の「伝統」は非常に頑固で厄介で、多様性を求める若者達から嫌われ梯子を外されるのも無理はないだろうなと思う。
「俺の若い頃はいい時代だった。」「この前の会議は酒が出なくて残念だったね。」「今の若い子はそんな事も出来ないの?」「女の子なんだからお茶でも出しなさい。」
これが現代に蔓延る頑固で厄介な「伝統」の正体である。
こんなものは伝統とは呼べない。それこそ若者の嫌う悪習そのものだ。自分は酒が好きだし酔いもしないが、飲みニケーションなんてクソ食らえと思う。酒を飲んで正気を保っていられる人間なんてどれだけいるのか。俺は飲むからお前も飲め、なんて道を外れたヤクザとやっている事が変わらない。
では本当の伝統とはなんなのか。
それは多分、初詣だとかお盆の夜にやる花火だとか、そういう物だと思う。
所謂年中行事って奴だ。七五三などの人生儀礼もそうだろう。
勿論これらは特定の宗教によるものなので各々それぞれの信条を基準に考えてもらって構わないのだが、一般的な(自称)無宗教日本人が季節ごとに楽しみにしている事は大体伝統だろう。浅いものではクリスマスとかハロウィンもそうだと思う。あれはキリスト教やケルトが絡むれっきとした宗教行事だが、それを意識してキリストに祈ったり収穫に感謝する日本人の方が少ないだろう。ただ単純に、ケーキを食べジングルベルを歌いカボチャをくり抜いてドンキの安いコスプレに身を包む。そういうどうしようもない、文化がごちゃ混ぜになった感じが日本らしさであり、祭り好きの日本の神や日本人の風土にあった伝統と呼ぶのではないだろうか。
さて、最初の話題に戻ろう。
伝統は守られるべきだ。しかし、新しきを受け入れなければ伝統は死ぬ。
ここで言う伝統は寺社仏閣だとか和服だとか、伝統と聞いてパッと想像するようなものを指す。これらは我々にとって日常に根付いたものであると同時に、マナーがあったり小難しい印象がある。しかも厄介なことに、こういうものには大体バックに「ナンチャラ協会」みたいな物が付いていて、ネットで頓珍漢なPRをしていることが多い(偏見)
なぜ頓珍漢なPRに走ってしまうのか。そこには破り難い伝統の存在がある。
伝統のPRの為に伝統に縛られて伝統が堅苦しい物になり伝統が……以下略
話が逸れた。簡潔に言えば、いかに伝統を大切にする必要があると言っても、そこに甘んじて変化を拒んでいてはいずれ伝統も文化も死んでいくという事だ。
伝統を受け継ぐのは若者なのだ。その若者が望んでいる事を「そんなもの伝統に相応しくない!」と言って却下していては、そりゃあ若者たちも離れていくに決まっている。若者が離れればどうなるのか。伝統なんて肩書きだけの物になって鯉みたいに酸欠の口をパクパクさせながら死んでいく。
それが本当に、伝統を守っていきたい人々の願いなのだろうか。
本当に伝統を大切にして守っていきたいと考えているなら、時代にあった変化を楽しんで受け入れる必要があるのではないだろうか。
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