戒厳信仰
ここ数日、何度かnoteを更新しようとページを開いては考えが纏まらずに放置を繰り返した。人嫌いの自分にとって東京という場所は情報を無理やり飲み込まされる場所なのだろう。言うなれば、幼稚園小学校と経験してきた給食の時間。幸い、嫌いな食べ物は無いので好き嫌いで物を残す事は無かったが、どうしたって胃に納めるには多すぎる量を言い渡されることがある。「先生、残してもいいですか」「じゃあ、昼休みが終わるまでに食べ終わらなければ、給食室に返しに行こうか」残業決定である。しかもたかが昼食で。40分の昼休みを1分1秒でも失いたくなくて必死にパンとパスタを牛乳で流し込むエンドレス。大体、パンが主食として出ているのに、なんで追加で(しかも汁物として)パスタを出すんだ。とても栄養士の考えた所業とは思えない。乳糖不耐症なので乳糖を取ると腹を壊す自分にとって、毎日の牛乳もドSの栄養士が考えたものとしか思えなかった。しかも大分変態趣味の。
東京はそういう変態主義者の集まりだ。今日もたまたま入った喫茶店で「鬱は信じれば治ります」と準カルトの信者と新入信者が語らっているのを苦い珈琲を飲みながら聞かされたばかりだ。ドSの栄養士と残業を強いる教師みたいに、都会は歩くスピードと各個人が持つ秘密(これは盗み聞きという手法で簡単に手に入る)によって、自分に情報過多を強いて人酔いさせる。うっかり口を開けたままでいると吐くまで情報を飲み込ませてくるような。正露丸が手放せなくなる訳である。
しかしこれはファインダーを除くことによって万事解決する。
前にも書いたことがあるが、自分の撮影スタイルは音楽を聴きながらサブカルをキメる事に始まる。東京が舞台のその歌はこの街に来てからというもの、その矛先をより鋭利にした様だ。抉られているのは、プライドか羞恥心か。東京で東京非難の歌を聴くことに“イキり”以外の言葉を充てられるなら教えてほしい。つまり、サブカルをキメる=イキり。自分は一眼片手にイキり散らしている。
荷物が多いのでここ3日の相棒は主に35mm、時々ズームレンズ。ちょっと広い視野で街を見てみようという試みでもある。35mmは人間の視界よりも体感少しだけ広い。そうでなくとも近視を拗らせて久しい自分にとっては眼鏡よりも眼鏡。最近ズームレンズ以外の良さを理解し始めたので、これからはもう少し活躍の機会が増えるかもしれない。新転地を撮るには都合の良いレンズだった。
実を言うと単焦点レンズと言われるものを、これまでは「使い古しの彼女」と言う目で見てきた。「使い古しの」というのは穴兄弟的な意味である。つまり、デートに行けども行けどもプランの変わらない、でも経験だけは豊富なんだと誇らしげに語るちょっと面倒な彼女。コッチは水族館から遊園地、お互いの家からラブホテルまで色々な所に行きたいのに、彼女はいつまで経っても公園デートを申し出てきて挙句手も繋がせてくれないような。2ヶ月で初キスと言い張れるなら、1年我慢した自分は初モノと付き合っていると言っても良いんじゃ無いかなというような。
だが実際はどうだ。彼女、とんでもないテクニシャンだった。1年経ってやっとデレてくれた単焦点レンズちゃんは、何とも言えない絶妙な距離感で持ってこちらの期待に応えてくれる。人のお古だなんてとんでもない。こちらの力量以上に頑張らせてくれる。こっちが能動的に動いてやらないと反応を見せてくれないというのも、何ともいじらしいじゃないか。気が付いたらすっかり単焦点の虜だった。
いつもの様にイヤホンを耳にはめて一眼片手に街に繰り出す。ファインダーを除いている間は喧騒が遠のく様な気がするのは、この前買い換えたノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンのお陰だけでは無いだろう。35mmは筒を伸び縮みさせる動作がいらないので、1/60くらいまでは片手で気軽に撮れる(実際は1/125前後が扱いやすい)。一眼レフを片手で扱える様になってきている己の右腕にも感心するが、それ以上に肉体改造を施してくれる1キロ前後の機体には飽きさせてくれないという点で敬意すら抱く。
6年住んだ街を去った今、今後4年間過ごす事になる街はどの様な顔を見せてくれるであろうか。
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