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法華経の智慧(第四回)題目の力

今日は題目を唱える事の効果と
人間誰もが尊い存在で全ての可能性を
持って生まれてきている事を日蓮大聖人の
教えを通じて再確認して参ります。

【御文】日女御前御返事 より
この御本尊、全く余所に求むることなかれ。ただ、我れら衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり

【簡訳】
私達が信受すべき本尊(信仰の対象)を
外側の世界に求めてはなりません。
法華経を実践し、「南無妙法蓮華経」と
唱える私達の生命(身体)に
御本尊様はいらっしゃいます。

【解説&所感】
宗教は様々あり、宗教の数だけ
神や仏、信受すべき信仰の対象があります。
実は法華経にも諸仏や善神が出てきます。

私が信受する「南無妙法蓮華経」の文字曼荼羅には
文字で諸仏や善神が描かれています。

ですから、法華経も日蓮大聖人も
諸仏や善神を否定している訳ではなく、
逆にその存在を認めているのです。

しかしながら、あくまでも自分が信受すべき
御本尊様は貴方自身の中にあると
教えてくれているのです。

自分の願いや理想を叶えたいと思った時に
一般的には神頼みや弥勒菩薩などの力を借りようと
考えるのではないでしょうか? しかし、
その根本にあるのは他力本願の心です。

鬼滅の刃風に言えば生殺与奪の剣を
自分以外に握らせている様なものです。

法華経では自分の身命こそ本尊であると
教えている訳ですから、自らに
願いや理想が叶う様に祈り、行動するのが、
法華経であり、日蓮大聖人の教えなのです。

この生き方はどこまで行っても
自力本願な生き方とはいえないでしょうか?

諸仏や善神になら願いを聞いてもらえそうだけど、
自分が自力で叶えるなんて難しいと感じますか?

皆さんも神社仏閣で願い事をした経験があるかと
思いますが、その後、願いは叶いましたか?
おそらく叶っていないなら諸仏や善神に
願いが通らなかったという事になりますし、
叶ったとしてもそれは冷静に考えたら
貴方が目標に対して絶えず努力してきたからでは
ありませんか? 神社仏閣で願掛けする事を
否定はしませんが、その儀式によって実際に
願いが叶う訳ではなく、願掛けという儀式を
通じて貴方の心が决定するからこそ、
進むべき道が明確化し、覚悟を決めて、
自分の願いや理想に向かえている
という事ですよね?

つまりは結局、願いを叶えるのも
自分という事です。

私達の生命には仏性が備わっています。
仏の力が生まれながらに備わっていると
教えてくれているのです。

そんなもの感じた事ないですよね?
そんな素晴らしい力が自分に備わっているなんて
にわかには信じ難いのは理解できます。

でもこの事は事実であり、真実です。
先師の諸仏達もこの仏性を自身の生命に
湧現させる事で成仏したんです。

法華経でいうところの成仏は
死んで戒名をつけてもらう事ではないですよ。
あくまでも法華経を実践する中で
自身の仏性を湧き上がらせて
悠々、堂々と自分の人生を
生ききるという事です。

ではどうやってその全ての願いや理想を
叶える力、仏の力を自らの身命に湧現させるか、
それはただ「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、
法華経を学び、日々、実践して行く事と
教えて下さっています。

自分の身命が御本尊様なら曼荼羅なんて
要らないと思う方がいらっしゃると思いますので、
補足すると私が信受する日蓮大聖人が残した
文字曼荼羅は生命を映し出す鏡という
役割りがあります。つまり、曼荼羅の前に
座って題目を唱えるのは自分自身に対峙して
題目を唱えているという事なのです。

ちなみに「南無妙法蓮華経」とは
南無=感謝して帰依する
妙法=宇宙と生命の根源の生死の大法
蓮華経=蓮の花の様な教え
蓮の花の様な私の不思議な生命の営みを
感謝して信じますと言っているのです。

更にいうと何故、蓮の花なのか?
蓮は生まれながらに種を持って生まれます。
その事が仏性を備えて生まれてくる私達、
衆生(人間)を表していると同時に
蓮は汚い泥沼から生えて、綺麗な花を
咲かせる事から人間が娑婆世界(現実)で
自分らしく生きて人生を謳歌する様を
蓮の花を通じて比喩として表現しています。

法華経を信受して「南無妙法蓮華経」の題目を
唱え、行動、実践して行く時、叶わない願いは
何ひとつとして無いのです。

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