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三浦貴さんの記憶④ ~指導者時代~

三浦貴さんの記憶① ~プロ入り前~
三浦貴さんの記憶② ~巨人時代~
三浦貴さんの記憶③ ~西武時代・引退~
三浦貴さんの記憶④ ~指導者時代~ ←この記事
三浦貴さんの記憶⑤ ~さよなら~


指導者時代

おかえり貴!

 引退後の貴が社会人学生をやっている時期に、浦学の試合のスタンドで貴の姿を発見しました。うおぉ! ドキドキ。調べると、それ以前にも目撃情報が。「母校を優勝させたい」発言は将来的な夢であって、実際は別の学校で経験積むのかと思っていたけど、いきなり浦学の可能性もあるのか? いや、浦学に戻るのは規定路線なのかな? 元プロの指導者は、逆に学校側からも欲しいでしょうし。でもモリシにそんな権限あるの?
 その後も1回見つけて、もう我慢できなくて握手しにいってお体にタッチしてきました。ハァハァ。ごめんなさい。

 2012年になり、無事浦学に先生として採用されたことを把握しました。すごいなぁ、貴。ちゃんとやりきったのか。てっきり体育だと思いこんでいたので、公民で驚きました。記事に書いてあったのに見落とすなよ! 生徒たちに直接野球を指導できない代わりに、それ以外の業務を担当しているようでした。
 この辺りは浦学が全国的にも盛りあがっていた頃。浦学に着任した年が、佐藤笹川らの33期と入れ違いで、2年エース小島でセンバツ優勝したまさにそのときでした。
 佐藤らが神宮大会に最初に出場したとき、R高校の当時監督とT高校の当時前監督の会話、聞いちゃったんです。前日上尾で飲んだとき、100回大会で埼玉初の選手権優勝してやめて三浦に譲る、それまで三浦をちゃんと育てるって森さんが言ってた、ってO監督が話されてたのを。真後ろでそんな話されたら試合に集中できないでしょ、やめてくれ。それと100回以前に優勝する気ないのかよ。他にも、大くんがお母様とグルで勝手に◯◯◯を◯◯してきた話の話とか。いやだから気になるでしょ。しかも前には人力舎の面々がいるしさ。試合が頭に入ってこないけど、結局何年もその辺りに陣取って、監督や芸人たちの話を盗み聞きするのが定番となりました。APDは辛いよ。

浦和学院高校硬式野球部HP「浦学野球部特集 栄光への架け橋~甲子園への道~」より。
先生の貫禄はまだないかな。あと、大学選手権は未出場だし神宮も優勝はしていないし。

 翌年の7月末に特例でプロアマ規定が解け、晴れて浦学のコーチに就任することになりました。すごーーい! その半月前に名前を伏せた報道があり、いろいろ勘ぐって緊張しました。もうっ小出しにしないでよ! ↓自分のポスト、随分かっこつけようとしていますが、大したこと言っていないです。「彼はグラウンドに帰ってきました」が重要です。おめでとう貴。ここからだぞ。

 この日付見て思ったのが、亡くなった10年前の同時期なんですね。コーチ暦もまた、10年に届かなかったのか……。

 直後の選手権に浦学が出場し、貴はノッカーとして少し話題に挙がりました。これが、小島乱調痙攣降板拒否で有名な仙台育英戦です。あんな球数放って痙攣までしている投手を続投させるなんて言語道断。継投で負けても仕方ないじゃん。小島の心意気を買ったとしても、美談に仕立てるのは危険。もっとずっと前の段階で非情になれよ。だったら春高戦でノーノーさせたげたってよかったでしょ。初戦で山口は試したわけだし。育英戦のあの状態の小島と比較にならん。
 この試合に出場していたある選手は、大学のラボの先生と私がズブズブの関係だったため、何度かご一緒させていただきました。精力的に活動されていて、素敵な方ですね。いろいろあったようですが、お元気なのか心配です。
 今年の選手権で育英と対戦したときも、この10年前の試合を絡めている人が多かったように思います。多くのファンの心に残る激闘ができたなんて、素敵なことです。私は今年も10年前も行っておりませんが、100回大会の選手権と神宮大会決勝の育英戦は目の前で観戦しました。因縁の相手どすえ。

2014年神宮大会準決勝 東海大菅生-浦和学院戦のシートノック前。
さて、貴はどこにいるでしょう!

 その後貴は、ノッカーで見ることが多かったです。中村コーチのノックが好きだったので複雑な気持ちになった(何でもかんでも貴の方が好きってわけじゃないんだよ)けど、貴のノックもそのうち見慣れてきて、今や1番のお気に入りになりましたね。昔は「ぎゃぁぁぁぁぁ貴さまぁぁぁぁぁ♡♡♡」で、最近は「お、貴か」くらい慣れました。いずれにしても浦学のボール回しとノックってきもちいっす。野球やってる人ならよいお手本になるでしょう。試合にはよく遅刻しちゃうので見逃しがちなのが残念です(お前がいけないんだろ)けど、球場にいるなら是非、トイレタイムにせず見守ってあげたいです。

2017年選手権埼玉大会準々決勝 浦和学院-聖望学園戦でシートノックを打つ三浦先生。
ゴロ捌きは選手含め巧く、安定したフライ打ちは見応えあった。選手に活も入れるようになった。

 ノック終えて着替えてきたり、ノッカーでベンチ入っていないときでもスタンドで生徒の引率していたり、球場内外で挨拶していたりすることがあります。浦学の試合を観に行くとまず、無意識のうちに三浦先生探しをしてしまいますね、ストーカーの鏡! スカウトのチェックもしますが。ノッカーや責任教師は大会ごとで決まりがちと思いきや、イレギュラーがあってよくわかっていないです。浦学の試合がないときにも見かけたことがあり、偵察か、上下や横と関係もつためか、いろいろあるんでしょう。ただでさえ忙しい教員が部活動でここまで働かされて、大変よ。某遠征先で見たときは不意討ちで超ドキッとしました。
 私は大体ネット裏なので貴がいがちな応援席は遠いですが、一般人に交じると背が高くてシルエットがキリンみたいで独特だから、わりと見つけやすいです。皆なで肩なで肩言うけど、首が盛り上がってると思うようにしています。見つけた際には、試合までの間とかグラセンの間に握手しに行くか、席種が区切られている場合や移動が面倒ならじっと眺めるのが定番です。安保さんとの会話中や、座って何か書いたりしているときは遠慮しました。見つけられない or いない or ベンチ奥にずっといることの方が多いですけどね。お客さんが多いと、さすがの私でもお手上げです。
 部員や一般生徒と談笑されたり、「おーい危ないよっ💢」って注意されたりしてたの見たことあって、いやぁ、もう立派な先生なんだなって思いましたね。ずるいっ! 自分も怒られたい! 生徒が羨ましいぃ……って思うものの、あんな先生が身近にいたら僕耐えられないですぅ……。
 なんか、昔は鋭い眼光で睨みつけていたイメージが強かったんですが、立場が変わったからですかね。握手や声がけには快く応じてくださいました。大きくて穏やかで、とても好印象でした。なんだかんだプロ野球選手です、がっしりとでかく手もごつごつしていました。現役時の夏場なんかは顔まで超ガリガリで心配でしたが、通常の肉づきになり安心しました。それでも動いているから全然太らなかったですね。かなり若々しかったです。かっこい~! あ、でも前に、三浦先生を見て「怖かった」って呟いたことがありました。現役球児バリの5厘刈りで、グラサンして、脚全部隠れる長~いベンチコート着られていたんです。ワイルドすぎてどこの輩かと思いましたよw どれもが貴なんですけどね。

 現役引退して長く経っても、県内の高校野球ファンの中で先生は有名人です。その辺のオッサンのおしゃべりを盗み聞きしているとちょくちょく「浦学は三浦貴がコーチ就いてから……」みたいに登場しますし、Xでも、現地観戦時に発見報告もしくは未発見報告をする人々、話しかけて興奮する人々が見受けられます。私だけでなく、多くの老若男女をワクワクさせている罪な人です。ぜ、全部チェックしてるからなっ。ストーカーなめんなよ。

2018年春季埼玉県大会準々決勝 浦和学院―市立川越戦のシートノック前のひとコマ。
グラウンド内外の三浦先生はいつだって人気者である。
晩年は白シャツ側に回られて裏方仕事に励まれていた。

三浦先生と話した日

 そうやって、三浦先生が着々と教師・コーチの経験を積まれている最中、私はついに、先生とお話しする機会を得ました。公私混同 経緯や内容は業務上知り得た情報に該当するのでカットです。
 いろいろやりとりして、途中から汗だく(!)の三浦先生がいらして、名刺をお渡しして云々という感じでした。同行者が学歴をバラしてくれたお蔭で多少信頼を得たかもしれなく(私自身にスキルも魅力もないので、こんなことでしか強みを発揮できないのは残念です)、しっかりとお話を聞いてくださりました。僭越ながら、私の本来の業務や思想もお話しし、ご意見賜りました。教材づくり、個別のフォロー等の話題が挙がった際は、違和感がありました。野球とは関係ない、教師としての姿を一切見たことがなかったので。
 以降は業務とは一切無関係の雑談です。

 私が浦学が大好きでしょっちゅう観戦しているという話になりました。あの代は強かった、誰がいた、って感じで皆でどんどん時代を遡っていき、覚えている最古の浦学の試合はという流れになって、私は、三浦先生が投げていたセンバツだと言う羽目になりました。完全にハメられて、公開告白みたいな感じで猛烈に恥ずかしかったです。
 「……と、いうのを、先生が西武にいらしたときのファン感謝デーでお話ししました。実は」と言ってやると、覚えていらっしゃらないようで(そりゃ私そこまで話していないですからw)、突っ込まれていました。かわいい。

 三浦先生が働きながら教職を目指す報道に勇気づけられた、素晴らしいと持ち上げると、先生は「いやいやいや……僕はわりと普通の人間ですよ。」とおっしゃいました。教職に限らず、働きながら資格をとったり大学院に行ったりする人も大勢いる。資格じゃなくても、ボランティア活動したり家庭を大事にしたり、同時に複数のことを皆それぞれ頑張っている。それと何ら変わらない。そういったご主張でした。
 むしろ恵まれている。「好き勝手やらせてもらってる分際なんで……。」と、どこまでも謙虚な先生。飲みこまれそうな雰囲気になってきたので、「でも、好きなことをして生きていけるって、すごいことだと思いますよ。」「あれ、今自分、めっちゃよいこと言いませんでした? 言いましたよね?」とおちゃらけてしまいました。バカバカ。
 本気で言ったんですけどね……自分自身に向けての言葉でもあります……。まぁ、三浦先生も笑ってくださったのでいっか……。先生が好き勝手している姿で、私はどれだけ救われたことか……。

 それから、マスターズ甲子園の話題もありました。近所のうどん屋にトーナメント表が貼ってあることしか知らない大会でしたが、「甲子園行きたい」とか高校生みたいなこと言って盛り上がっている 大男 オジサマ お兄様たちがいて、楽しそうでした。出られるんですかとお聞きすると、先生は、「え~~出るよ~~出るかもしれないよ~~」と急なタメ口&謎のテンションで宣って、上体を捻っていらっしゃいましたw
(おうおう煽ってくんなよ、かわいすぎんか。平静を保てない、やめろやめろ! 現役時代、普段ふざけないくせに突如カメラにドアップでべーして、え、そんな人だったの? ってなったあのときみたく、突然キャラ変したから驚いたさ。元野球部員って、自分が野球することになるとすぐこんなになるよね。よほど好きなんだろう、理解できん。(^_^;) あ゛あ゛かわいいかわいい! てか、先生が出場する試合とか観たいに決まってんじゃん! ぎゃぁぁぁ)←約2秒
 「フフ……じゃあ観に行こうかなぁ、行ってよいですか」とお伝えすると、「行かれたらいいんじゃないですか、浦学OBわかるなら楽しめると思いますよ」と別の方に言われました。こ、これは曲解すると、三浦先生に来てほしいと誘われたようなものだ(違う)!

 恥ずかしいから早く終わってほしいような、永遠に続いてほしいような、夢見心地の時間でした。律儀に外の外まで見送ってくださいました。同行者には、見すぎだよ、瞳孔ガン開きだったよ、とからかわれました。○ね。
 その日は眠れませんでした。

2018年春季関東大会2回戦 千葉黎明-浦和学院戦でシートノックを打つ三浦先生。

楽しいおしゃべり

 あの後も関東の様々な球場で、三浦先生にお会いしました。ど○○○○のラフな恰好で話しかけてもはじめは認識していただけませんでしたが、「□□□[社名]の◇◇[苗字]です。すみませんプライベートなもので」と申し上げると、微笑んで「ああ! ◇◇さんですか!」とおっしゃってくれました。特に、名前で呼んでくださったことは感涙モノです。どんなに深い付きあいのお客様でも、「□□[社名の略称]さん」とか「□□の○の子」などと呼ばれることの方が多く、自分ではなく会社として認識されているんだなと実感していたからです。なので、先生が名前で呼んでくださったのは とてつもなく嬉しかったのです。
 前、同僚に「よくいつまでもミーハーでいられるね」と言われたことがありました。この業界で働いていると、平気でプロOBや有名人に遭遇します(私の業務だと現役選手にはなかなか会えない><)。そもそも同僚がそうです。あまりにギラギラしすぎて、いちいち興奮している暇もないので、そういった感情が薄れるのは仕方ないでしょう。だけど私にとってプロ野球選手はサバイバルに勝ち抜いてきたヒーローであり、神聖なる存在です。たとえマイナスな面が見えたとしても、自分がどんな暮らしをしていても、そうであり続けたいです。
 あ、言っときますが、ご本人たちの前ではいたって普通に接します。表面上は。いなくなったらニヤニヤ ムフフです! でも、同行者たちの反応から察するに、先生の前だけはドキドキを隠しきれずに普通でいられなかったかもしれないです……。ごめんなさい。

 あの日以降で球場で三浦先生にお会いしても、認識されてしまうとさすがに握手やこっそりタッチはできず、会釈して「◇◇です。今日もがんばってくださーい」と言うくらいになりました。顔を出して名乗ることで忘れさせないことは大事です。触ることができない点は残念でしたが、お時間あるときに話しかけた際は、向こうから「あ、どうも~。最近どうですか?」などと振ってくださり、結構長尺で会話が成立できて、幸福感ハンパなかったです。
 内容は恣意的な業務連絡(これしないとマジのストーカーなので……)と、その年の浦学・埼玉県内の高校の選手や試合についてが主です。たとえば、ある有望な選手を褒めちぎり合った後、「逆に、彼の直してほしい部分はどこですか?」とお聞きしたら、急に高い声で笑いだされて「なんか取材みたいですねぇ」とおっしゃいました。えー、そんなおかしかったかな? お答えになった内容は内緒です。
 そんな話を三浦先生と2人きりや、突然入ってきた(入ってこないで〜)知らないおじさんたちと4人でできたのは、本当に夢のようでした。一生モノの、何にも代えがたい思い出です。あぁ、思い出しただけでキュンキュンするわぁ♡

 他にも、何度かご一緒させていただきました(一緒と言い難いのも含めます、含めたい)。なんか、先生がいらっしゃるとは思わず、私めが筋力と歩き方の関係について講釈を垂れていましてですねぇ、オードリー春日とか、歩行者信号が点滅して慌てて走るOLの腕振りとか、算数が得意な少年の跳ね方とかやってたのを先生にがっつり見られましてねぇ……うわぁ恥ずかしい! 爆発しろ!
 これ以上書くと思い出が漏れていく感じがするので、墓場まで持っていくつもりです。ムフフフフ♥♥♥ まぁ私は仕事で直接先生とかかわることはなかったし、恥ずかしくて淡々と業務をこなしていただけなんですが、仕事や野球のお話を真面目にできたことは本当によかったです。

 三浦先生に対して寡黙なイメージを持っていましたが、仲間うちでは結構話されるというのが意外でした。かと言って全然自己主張されない、謙虚な方でした。むしろ、ご自分のブランド力をもうちょっと自覚なさった方がよいくらいだと思います。現役時を掘り返されたくない感は少しあった気がします。気のせいかもしれませんが。あと(見た目含め)チヤホヤされるのもあまり好きではなさそうでした。気のせいかもしれませんが。球歴でマウントとるようなことはないし、我が強い、いわゆる「元プロ」像には全然当てはまらなかったです。
 中身を知らずに好きになった(現役時代の性格の印象は「真面目だけどちょっとズレてる親バカ」でしたかね)から、畜生である可能性もあって真実を知るのは怖かったけれど、中身まで素敵で安心しました。想像以上によい性格すぎて、ますます好きになってしまって困りました(//∇//) 部外者である私にはきっちりしたパーフェクトヒューマンにしか見えなかったですが……え、天然か? 天然なのか? あわわわわ。かわいい。そりゃ あのボーンヘッドもするわ。

 近づきすぎちゃったかなぁ……眺めるだけのファンのままでいるべきだったかもしれませんね……。認知されて調子乗ってるキモいファンでしかなく、きっとご迷惑だったんだろうなぁ……。

浦学ファンとして

 21期までしか浦学自体の話をしていませんでした。
 坂元、大竹、須永とコンスタントにプロを輩出する高校になっていきました。レジェンドたちが辞めないからNPB選手が溜まっていく一方。2006年に久保田が引退するまで、13人所属したまま1人も引退していないという異常な状態で、出身高校ランキングで最高3位になりました。
 23、24期は同年代で、全国制覇を本気で考えるくらい強かったです。「1番ショート松谷、2番セカンド漆畑……」と、今でもスタメンがスラスラ言える(「1番ショート大久保……」の方は途中で詰まった)くらいハマり、教室のPCで浦学サンバ動画を流して踊っていました。2002年夏の川之江戦の敗戦はなかなか消化できず、なんであんなになったのか、悔しくてたまらない気持ちが未だにあります。(甲子園で)勝つというのは本当に難しいものです。

 実は、この後辺りからの浦学が好きになれなかったことをここに告白します。いわゆる軍隊と揶揄される野球部の実態を、噂レヴェルで知れるようになったのが大きいです。25期の岸が選手権の広商戦で、ホームラン打ったのに全然喜んでいなかったのが、ひどく悲しかったです。何も知らない部外者がほざいても仕方ないですが、噂を耳にするたびに、そこまでするかなぁという思いでいっぱいになります。赤坂鮫島の28期にいた菊地が言いふらしたり、最近今成亮太がYoutubeで暴露したりしているのを聞くと、その頃の生徒たちは果たして幸せだったのか、そう考えてしまいます。「辛い仕打ちを皆で乗り越えたよき思い出」で終わらせてはいけないのです。乗りきれた優秀な選手以外に対して言及しています。
 まぁね。抑圧によって生み出される産物の、きっちりした部分、特にアップやダウンで見せつけられる集団走が好きなので、一長一短なんですがね。こんなもっさいド陰キャキモヲタが朝球場周りを物色したり浦学グラウンドを訪ねたりしても、大声で「おあっあーッス(おはようございます)!」と言ってくれるのはすごいことです。体育会系のノリは大嫌いですけど、あんな部員たちには、なんていい子たちなんだ……って思っちゃいます。

2014年秋季埼玉県大会2回戦 浦和学院-武南戦 終了後のクールダウン。
これって他校がやってるの見たことないんですが、浦学だけに許された特権なんですかねぇ。

 ここでちょいと小噺を。
 2006年夏、東北の花笠・七夕祭りを観に、家族で1泊2日のバスツアーに出かけました(翌年はねぶた・竿燈に行きました)。後に県勢初の8強入りする日大山形の試合日で、ちょうど山形市内が盛り上がっていたこともあり、バスガイド(添乗員かも?)が高校野球について話しはじめました。そこまでならちょっとした話題づくりでしょうが、その後「我等が埼玉県からは浦和学院が、3日後に登場します。今年はエースピッチャーが……」と続き、異常な詳しさでした。最初は同類のオタかと思いました。でもその☆☆さんは珍名で、どこかで聞いたことある気がしていたのですが、突如繋がりました。名前だけ見覚えのある、あの浦学の選手と同じです。休憩時に「もしかして、○○年卒業の選手のご親戚ですか?」と訊くと、お母様とのこと。めちゃくちゃ嬉しそうにされて、私も結構はしゃいでしまって、夜のお誘い? がありました。
 その日は仙台のビジネスホテルの1人部屋に泊まりました。指定された23時に自フロアのエレベーター前に行くと、私服の彼女がいました。「シーッ! 自由時間にお客様と交流しちゃダメなの!」と涙目で訴えかけられ、別フロアの休憩スペースに。自販機のコーヒーを奢ってくれて、彼女は缶ビールで、夜通し浦学話をしました。
 結構ディープな話もしてくれましたし、私の質問にもどんどん応えてくれました。とにかく森先生に感謝していることはよーく伝わってきました。私から提供する話は全然なかったけれど、すごく楽しくって、解散したのは1時近くでした。
 口外しないように釘を刺されましたので、公表するのは初めてです(嘘ですツレに話しましたごめんなさい)。まぁ時効ということで……。あのガイド、違うホテルに泊まっていたのか? 普通に朝から元気に仕事していたけど、邪魔しちゃったかな?
 小噺はいったんおしまい。

 31期が大好きでした。私が観に行きまくりはじめて、よく知っていたからだってのが理由かもしれません。名前の字面を見るだけで、今もその投球フォームや打撃フォームが頭に浮かびます。この辺りから関東以遠の入学者が増え、関東大会でも常勝になってきました。なんとなく雰囲気も明るくなったと感じるのは、私の気のせいでしょうか。
 誰一人欠けることなく3年間乗りきったのに、2つの悲しい死がありました。好きな選手、浦学を愛してくれた選手だったのでショックでした。
 もう1つは……罪を憎んで人を憎まずと言われます。日本一になったときに彼が身を粉にしてともに闘ってくれたことは称賛に値するでしょう。もっと負担なくデータ収集できればあそこまで酷使にならなかったろうと、少し責任を感じています。ブラック万歳、根性論が平気でまかり通るスポーツ業界に浸からせてしまったことが、善悪の判断がつかないモンスターを生み出す遠因になっていたかもしれません。故人を悼み、自分を見つめ直して罪を償い、悪い奴等との縁を切ってしっかり生きてほしいと願います。

塀の中の人のXのポストより。連戦続きのティーム帯同のデータ班は非常に激務だ!
データ収集は容易く、その代わり分析に時間を割けるような未来が来てほしい。

全国制覇と世代交代

 その後、33期、34期+小島で全国でも勝てるティームができ、ついに全国制覇しました。震災があり、全公式戦で新ユニが採用され、そして貴が学校に赴任した頃です。佐藤というでっかい存在がいて、その影響でよき物、者がやってきてくれました。関東も勝って当たり前、18Uにもバシバシ選手送る。楽しかったですね。
 センバツ制覇のとき、私は前述のインターン先に、4月1日からフル出勤するタイミングと重なりました。TVの野球中継は必ずついている職場なのでリアルタイムで見届けることは確かにできました(この時点で恵まれています)。けど、いきなり休みまくるのもどうかと思い、結局、初戦の土佐高戦しか現地に行けませんでした。長年の夢が叶ったせっかくの大会、今でもちょっと心残りがあります。そのせいか、普段遠征しない甲子園で勝ち進むと、行っといた方がよさそうだと焦るようになっちゃいました。金と年休が消えていく!

 程なくして、埼玉の盟主を徳栄に譲る時代がきました(高橋昂也にはちょい浮気してもうた)。そりゃ、そんな時期もあろうけど、2年半で甲子園を1度も経験しない代が出てしまったのは寂しかったです。無関係の人間がそうですからね。当人たち――選手も卒業させる指導者側もさぞかし悔しかったでしょう。夏に公立3連敗とかさぁ。佐野蛭間の2年時は結構強かったですよ、徳栄が強すぎただけで。貴がスカウトしてきてくれた選手が中心なので貴が槍玉に上がって、粘着野郎によって2chに文句が書かれまくりました。許さん! 我々は試合でしか判断できないですからね。勝敗なんてほんのちょっとのことで変わるものなのに……。
 私、浦学の試合は大会後半から観る派で、それ以前は西部や他県を優先するきらいがあります。浦学ってどうせ勝ち進むから後で観られるし、いろいろなティームや選手観たいし。そんなスタンスでいたら、2018~19年は秋春夏とも早期敗退で、なんと1試合も浦学を観なかった年でした。私の不徳の致すところです。2019年の秋は身内の不幸があって行かれず、翌年からコロナ。結局3年近く浦学現役生の試合から遠ざかり、もう、辛すぎました。

 東洋の昭雄さんがやめてモリシ就任、空いた席に三浦先生が座るという人事があるとしたら、100回大会前後の年度と踏んでいたのに、その前に杉本前監督の情報がオフレコで入ってきて若干凹みました(同僚に「新しい監督誰だと思う?」と聞かれて勝手に興奮してしまい、三浦ファンがバレた)。O監督の会話聞いてからずっと妄想してたし、モリシが院進したのもその布石だと思っていたから。モリシがいなくて臨時で采配振るったことが何度かありました。あれはトキメいたなぁ、直接見てはいないですが。
 大くんがモリシの跡を継いで浦学野球部監督に就任した際、三浦先生に対して「かわいそう」という意見が散見されました。結果論ですが、私は大監督&貴コーチという形でピッタリだったという感想をもっています。先生の遂行力や忍耐力は並大抵のものではないですが、大くんのように先頭に立って改革をするのはあまり想像できません。無意識下で恩師への遠慮もあるでしょう。生徒たちに直接丁寧に野球の技術を教え、ともに身体を動かして見本となるのに専念する裏方の方が向いていたのではないでしょうか。守備指導も打撃指導も非常に評価されていましたし、浦学という巨大組織の中でも欠かせない役割を担っていました。元プロで教員資格もあるなら、浦学以外でも探せばなり手はあったでしょうが、ご本人が森親子の下で指導するのを選択し、家族でかかわり続けたのだから、この形が幸せだったと思いたいです。貴も浦学のことが大好きだったんだよ、きっと。信憑性は低いものの、某元女子高から引き抜きの噂もありました。OBの中でもいろいろあるのでしょう、浦学にいさせてもらってただけで有難かったです。
 実際の事情も性格も適正も知らないで、あくまでも妄想ぶっこいているだけなので、胸の内はどうだったかはわかりませんがね。私は一生ついていきたいくらいモリシを愛しているので、まぁよいんですが。

 コロナ禍とともに、三浦先生は県の高野連の理事にも就きました。と言っても仕事内容は我々の目に見えない、地味で大変な感じですよね(センバツの選考で大いに貶していて申し訳ない。これからも文句は言うけどさ!)。目に見える範囲では、試合の合間やグラセン中にしれっとグラウンドにいたり、スタンドでルール破っている観客に注意したり。あの人たち、正直試合中は暇そうですよねw 多分それ以外の運営はすごく多忙だと思います。無給で本当ありがとうございます。ま、監督の方が外にはわかりやすいからなぁ。誰もが真っ先に監督を目指すわけではないですし、指導を続けていくうえで先生は先生なりに志があったのでしょう。私はどう反応すべきか困りましたけど、真夏の球宴で名前を見つけたときはとりあえず興奮しました。

 大くんによる改革は、大いに期待しています。発言を聞くに、変えるべきこと、変えなくてよいこと、我々がちょっと思いつくレヴェルのことは相当考えていそうです。かなりキれる人なんでしょう。流行り廃りでなく、考えられる生徒から選ばれる学校になってほしいと思います。元々、栄養面やデータなど、時代に合った環境があったのは事実です。バース・デイでは従来の軍隊っぽかったので、見せ方によるかもしれません。0か100かじゃないですからね、その辺は理解して上手くやってくれると信じています。いずれにしても、生徒たちは恵まれているなぁと思います。
 それに、Youtube等の露出も多くなりました。開けた部になる云々もそうだけど、浦学ファンからしたら、すんげぇ環境とか、試合でしか見られない選手のことをいっぱい知れて嬉しいナ♪ 時々貴も映ったし。シートノック以外の貴のノック、違うねぇ……当たり前か。
 采配の方は、就任直後の秋とセンバツで、実に粗い戦い方(要は大振り)をしていて、おいおい大丈夫かと思ったけど、だんだん面白くなってきました。辛抱弱くてごめんなさい。最近守りが残念ですね、あんまりがっかりさせないでね。ガンバレ大! 他のスタッフ陣も!
 あと関係ないけど、三森大貴って貴と大くんのハイブリッドっぽくてよい名前ですよね。

 最近冷めた目で観ている気がしますね。勝っても負けても「まぁ、そんなもんさ」みたいな。コロナのごたごたであまり観に行かないのに慣れてきてしまったし。勝っても負けても応援しなきゃね。反省。
 ともかく、浦学のことは今後も細々と、ときおり熱狂的に、応援し続けていくつもりです。別に三浦先生がいるだけが理由で応援していたわけじゃないので。
 先生が斃れた今↓を読みかえすと、神格化している感じがしますね。悲しい。

 今年の3月11日の14時台、石巻の某小学校のグラウンドを訪れたり石巻工を眺めたりしました。午前中に訪れた東松島では、式の準備をしたり、見学をしたりする浦学生たちをお見かけしました。東日本大震災の際には私も野球道具寄付の仲介を手伝わせていただいたこともあり、浦学の活動も興味深く見ていました。主力が被災して、震災直後はいろいろと思うところがありました。阿部、嶋田が入部してくれて絆をつないでくれて、すごく感動しました。貴の生まれ故郷にも近い、自分にとっても特別な場所です。
 学校側の取り組みはよく拝見していますけど、特に、何年経っても継続していることが素晴らしいと思います。震災自体はひどく悲しいものでしたが、それによってできた縁。これからも永遠に、交流が続くとよいですね。

東松島市震災伝承復興館に展示されている旧野蒜駅の券売機。実物は大分悲惨。
震災関連施設は結構心にくるが、ファイヤーレッドはいつも私を元気にしてくれる。

※ 見出し画像は、マナブ@79072154manabu 様のXより拝借いたしました。2018年秋季県大会、三浦先生と生徒たち。


三浦貴さんの記憶① ~プロ入り前~
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