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三浦貴さんの記憶③ ~西武時代・引退~

三浦貴さんの記憶① ~プロ入り前~
三浦貴さんの記憶② ~巨人時代~
三浦貴さんの記憶③ ~西武時代・引退~ ←この記事
三浦貴さんの記憶④ ~指導者時代~
三浦貴さんの記憶⑤ ~さよなら~


西武時代

貴が西武にやってきた!

 年明け、本当に契約していました(12月分の所得ってもらえるのかな?)。マジかよぉ! 西武の帽子被った貴、超かわいい♪ 西武だとちゃんと観に行けます。貴ファン名乗って何もしなかったのを反省して、最後の一花咲かせる姿を観に行こうと心に誓いました。

 商店街にばら撒かれまくっていたタダ券が大成のせいでなくなっていったこともあり、2008年は超破格のシーズンシートを買い、定期も球場前まで延長しました。これで躊躇なく好きなタイミングで通えます。それに加え、冬学期に専門の学科に進学してからは出席必須の講義が週3コマくらいしかなく(その代わり試験が鬼畜で留年率クソ高い)、過去にないハイペースでドームに通いました。野球に対して麻痺してきて、ファームにも1番通った時期です。
 貴は2軍スタートで、春先は少々躓きかけましたが、5・6月で調子が上向き、やたらめったら打ちまくっていました。スタメンで主軸を張ることも多く、長打が多かったです。真芯に当たると異常に飛んでいて、シンプルに驚きました。細いくせにパワフルな子なのね……高卒若手野手を見る目で見ていましたね。イケるやん!
 私自身も、ホームラン2本と遭遇することができました♡ デジカメで写真も撮ったけど、2010年以前のものが発見できていなくて……発掘したら載せます。
 この頃のハイライトは、6月14日滝川でのFL戦。なんと3打席連続ホームラン! しかも光夫から。さすがです貴さま♡ ↓証拠よ。どやっ!
https://npb.jp/bis/2008/games/fs2008061400796.html
https://www.fighters.co.jp/farm/stats/2008061401/

 強いて物申すなら、内野守備が……結構な頻度でポロっていました(・∀-`; ) はじめセカンド、サードと外野、ファーストと外野、外野、DH、と次第に狭められていき、いろいろ試されていて、断じてユーティリティーとは言えませんでした。打球処理の足の動きも送球も見てる分には何ともない、むしろ結構軽快だと感じるのに、連携絡むとそれができなくなりがちだったのです。巨人のときこんな不器用じゃなかったけど?……ってド素人がこき下ろしていますけど、お前はいっつも失敗続きだろ。はいそうですね、ごめんなさい。100%近くが求められる世界って大変ですね。それに、貴よりはるっかに下手な選手わんさかいます。1軍ショートレギュラーのナカジが、あのにぎにぎ~でしたからね、イライラ! ファームの選手の成長っぷりや成長しなさっぷりの鑑賞ってめっちゃ楽しいですわい。

 高頻度で行くと気づけることですけど、熱心な子猫ファンもいるものです。こんな選手のユニ作ってどうすんの(失礼)って人だらけ。絶えず声を出す者、ぴくりとも動かぬ者、大砲みたいなカメラで撮影している者、やたら美人で差し入れっぽい手提げを持っている者、奥さんっぽい者……必ずくらいいるファンが何人もいました。
 選手もファンも適当に覗くだけ状態の第二の雰囲気は、選手と距離が近くてワクワクします。貴も特設サイン会を開いてたことがありました。ほんと近すぎて、これ大丈夫か? と思えることもありました。書いてよい話か微妙ですが、某投手が喫煙スペースにいて、というか降板後に普通に吸ってて(!)、金網越しに普通にお話しすることができました。実はその投手、プロ入り前も1回電車で話しかけたんです。それを覚えていてくれて……! 球が結構好きだった(もっとすごいPになるはずだったんだけどなぁ……)ので、忘れられない思い出です。そこでは他の日にも何人か話しかけましたw まぁ、自分既に小1のときに、西武球場のネット裏でファームの試合中に、スコアつけているW捕手に2イニングくらいずっと話しかけてましたがねw 今のカー3219は席もきれいで、こんな雰囲気ではないですかね。駐車場や寮までは追っかけないようにしましょう。
 喫煙所って、いろんな球場で狙い目です。部屋の場合は吸わない私は不審者ですが、密閉されていない場合はなんとなく近くをフラフラして、OBやら指導者やら見つけるストーキングが可能です。他の場所よりフランクに接してくれますよ。煙たいの我慢する価値はマジであります。o O

『Lism』2008 vol.6のTalking Room.
埼玉県出身選手が埼玉や県営大宮球場の思い出を語るというテーマで登場。
他の選手は「誰々と対戦してすごかった」側なのに、貴はすごかった側。さすが埼玉エリート!

 2008年は下でこんだけ打っても、なかなか上がれませんでした。最大の理由は1軍が強かったからです。25・26歳の片栗中中が君臨(正確には1〜3番が片栗中、4番ファーストブラゼルで、おかわりは6番、初の本塁打王の年! 編成ウハウハじゃろ)して、残りの外野はGGと脅威の9番ボカチカ。友亮や赤田、やっと開花した松坂が続きます。つけ入る隙はありませんでした。西武ファンとしてはそうやって固定できて強い方が嬉しいので、兼任の貴ファンとしては何ともやりきれないところです。移籍すれば出場機会得られると思っていたのに! 競争に勝てばよいんだけど……わかってるよそんなこと。ファーム要員から抜け出すもう一押しに苦しみました。うーんでも、序盤は上げてもよかったよねぇ、ブーーー><
 そして西武1軍は4年ぶり優勝。私も、PVしている駅ビルの野球クイズ大会で4年ぶりの優勝をしてコバトンをゲット。西武ドームでもPVがありましたが、私は駅ビル派(もっと昔は、近くて食べ物もふるまわれたダイエー派)でしたね。M1から守護神グラマンがやらかして、冷や冷やでした。また、清原の引退セレモニーを所沢と大阪の両方で見ました。
 終盤で故障者が出て、貴も上がったんですよね。出番はあまりなかったけど、スーパーサブとして帯同して、優勝争いの1ピースにはなんとかなれたのではと思っています。これができるプロ野球選手はひと握りです。とても立派なことだと思います。
 リーグ1位に加えてPO、NSも勝ち抜き、正真正銘の日本一になりました。貴は40人枠に入ったものの、出場には至りませんでした。調子は上がっていたんですが。片岡のギャンブルスタート、ナベQの「寛容力」とやらでイケイケでした。そうだった、最終戦で越智を打つっていう最も心をえぐる方法で巨人を負かしたんでした。m9(^Д^)プギャーw 第4戦は○○ってネット裏で観て、ビクトリーロードでおかわりに触りました♡
 はぁ。これから少なくとも15年間、日本一から遠ざかるとはつゆにも思わなんだ。

小野寺力オフィシャルブログ 2008年9月23日

来年もやれそう

 西武が優勝して貴どころではありませんでしたが、西武からもちょいちょい戦力外通告が出されました。1年前の貴は引退を受け入れかけていたので、西武にきてくれただけで私としては満足でした。そのため、たとえ2年連続で戦力外になっても仕方がないと私は思っていました。その覚悟で動く三浦をたくさん観戦したのです。
 ところがその危機をすり抜け、フェニックス参加にこぎ着けました。1年通してファームの主力として働き、長打力をしっかりアピールできたからなのかな。でも、この成績でもファームなら評価されずに切られることもいくらもある世界。来季はこの長打力や、足も肩も上で示すときです。貴のことを考えると、「ティームの優勝のために」でなく、「1年後に切られないために」という発想になってしまいます。この時点でレギュラークラスからは負けていたかもしれません。

 このコラムを書くにあたって成績を改めて調べて気づかされたんですが、野手転向してからのファーム成績、コンスタントに数字残せていたんですね。特に巨人時代、全然よい印象がなかったので、意外でした。多分私、貴のことをちゃんと見ていなかった気がします。「ヒット量産して試合をかき回す俊足巧打の1, 2番打者」「守備や率はそこまででも中軸でチャンスで大量得点期待できる飛ばし屋」、別に2択ではないけど、貴は前者の方だという思い込みがあって、三振の多さにげんなりしていました。やせている、繊細、足が速い。如何せん得意なことが多いので、万能だと思いたかったのです。西武に来て余裕を持って試合観戦を重ねてようやく、後者寄りのタイプかもしれないと頭を切り替えることができました。巨人でがんばっているときも、方向性が違う過度な期待を勝手に寄せてしまって、適切に応援できなかったことを、今になって後悔しています。貴ごめんね。

 11月のファン感の前に、日本一になったことを祝したパレードが行われました。10年間で9回優勝とかいう異常な時代には一切なかったので、所沢初の試みでした。ゴール付近を張る予定だったのですが、近くて油断したのか、人があまりにも多くて出遅れてしまいました。前に何重も人がいて、満足に選手を見られませんでした。特徴的な選手はなんとか判別できるかなぁ、程度でした。見誤った~……皆そんなにファンだったの?
 ファン感では参加したいコーナーや見たい選手はわんさかありましたが、人気がない方の貴に関しては、1回でも話しかけるのを目標にしました。なんとかクビはつながったものの、ファーム暮らしが中心であったことは確かだったので、最後かもしれないと覚悟したからです。元第三の入り口ら辺で捕まえることができて、もぞもぞお願いした握手と写真に応じてもらって、多分1分くらいお話しすることができました( //Д//).:*♥
・パレードどこにいるのか全然わからなかったです。
 →そうですか、1台目にいたんですけど。
  人めちゃくちゃすごかったですよね!?
・三浦さんのお蔭で浦学ファンなんです。テレビで見て。
 →そうなんですか、ありがとうございます。
・三浦さんが西武に来てくれて嬉しかったです。ありがとうございます。
 →いえいえ……ありがとうございます。
  拾ってもらった身なんで……。
・北海道でホームラン量産した試合すごかったですね。
 同じ時期に生でホームラン観ましたよ。
 →いやいや……ありがとうございます。
  1軍で打てるようにがんばります。
みたいなやり取りだったかと思います。周りに他のファンもやってきてしまったのもあり、割り振られてる仕事(バッティング教室?)の時間が来てしまうので、と断られて小走りで去っていきました(逃げられた?)。うぎゃぁああ! 爽やかすぎるだろ~! 脳みそ蒸発したかと思いました。

 その後貴は無事、契約更改していました。11月から年始にかけては毎年イベントに行って選手との物理的距離が近くなる期間ですけど、優勝したこともあり主力級選手たちの酷使っぷりがすごかったです。休む暇ないじゃん。こっちも疲れました。でも貴みたいな主力でないベテランは全然呼ばれないですね~苦笑。
 春季キャンプ前の壮行会(出陣式)は毎年行って、初春に向け気持ちを高めるようにしています。松坂ルーキーイヤー以来、初めての入場制限を喰らったので、入り待ち出待ちをしました。他の選手に夢中で貴のこと忘れてたな……。
 キャンプはまだ、B班のはじめ2クール所沢だった時代。実は前年も見学に行きましたが、松坂がいて信じられない数の報道陣でした。野次馬根性に火がついて浮かれてしまい、貴のことは頭からすっかり離れていました。この年は2月2日だか3日に行きました。飽きてきてフラフラしていたら、1人で荷物持って小走りで移動している貴を運よく見かけました! なので話しかけたら……無視されました笑! まぁ自分声小さいから気づかなかっただけかもしれないし、急いでいたかもだし、だ、大丈夫よ(凹んだ)

めざせ1軍定着

 2008年に飛ばしすぎたのと、通常の値段しかなくなったから、翌年はシーズンシートはやめました。株主優待を譲ってもらったり買ったりしたのと、他県のとある会社の方々に気に入られて、会社のお金で買うチケットを譲ってもらったりしました(アウトでは?)。黙って観たいのにいちいち解説や予想をやらされて最悪だった。おまけに○○を懇願される始末。うっざ
 ファームもそこまで観なくなりました。大学の制約時間こそ減ったものの、私が起床時間の大半を数学に充ててしまったのが大きいでしょう。数学書を読みだすと時間が一瞬で消えるんですよね。寝食を忘れるとはこのことで、どこまで理解できたかを優先して生きると昼夜なんて訳わかんなくなって、親によく怒られていました。起きて気づいたら数学している状態で、ふと我に返りあぁ野球観るか、今何時だ? うわ、お腹ペコペコ。てかおしっこ漏れるー! みたいな感じです。行き当たりばったりながら様々な野球をできる限り行くようにしていましたが、普段から情報追うのを怠っていたせいで、選手がよくわからなかったり、行っても数学考えているだけでゲームの記憶がなかったなんてこともありました。
 それと、彼女ができたこともあり、そっちに気がそがれていたのもあります。と言っても、絶望的に恋愛に向いていないため普通のデートなんか一切しなく、野球か陸上かサッカーの観戦を一緒にして、数学の課題をやらされて、○○○して、あまり会話もせず……。1人でいるときとあんま変わんないですね。まぁでも、貴がいかに大切な人なのかを力説して、一度第二に連れてきました。初めて盗塁を観ました。彼女より貴の方が好きでしたので、三角関係でした!

 西武だと、ライオンズチャンネル、文化放送、様々な冊子なんかを目にすることが非常に容易です。そこで選手のインタビューや特集がちょくちょくあるから、貴も何回か見ました。イケイケの若手でもおしゃべり担当でもないから出まくりはしないけど、必死にもがいてる姿や 親バカ 家族思いっぷりを、画像や映像、文字で見ることができました。
 今や定番のガチャガチャが出はじめで、大流行。レアキャラの貴は全然出なかったなぁ。ゲーム前後でピンバッジの交換会が自然発生していて、帆足とのトレードと、上原とのトレードで、貴を2個ゲットしました。

西武から出されたカードは2年間で2種類あったはずだが、これしか見つからず。
ピンバッチはこの1種類。もう黄ばんでいる。
個人グッズは結局、全登録選手作成されるもの以外はなかった。

 貴の西武2年目も基本はファーム暮らし。故障者の関係から、打っても上が詰まっていた前年よりかは、上がるチャンスを与えてもらっていました。この年からですかね、携帯で公示を確認できる環境を整えましたので、今上かどうかは把握できていました。当時のリーグ最長試合に出て、12回裏にタイムリー打って記録更新に一役買ったなんてことも。これが、私が1軍の現地で観た、最後(2本中2本目)のヒットでした。
 出場機会は対左の代打や代走が多かったです。ただ、走塁時のボーンヘッドを2度やらかしてしまいました。特に2度目、一塁走者でシングル(結果はライトゴロ)で二塁進塁するだけの機会でのミスは、ちょっとありえないレヴェルでした。ハーフウェイでもない、何か迷う場面でもありません。あんなん金子でもやらんわ。

うーーーん、幻滅した……。

サンデーモーニングのご意見番でも取り上げられ、まだいた親分と張本から勢いよく喝喰らっちゃいました><。常に一所懸命で手だけは抜かない(別にこのプレーも本当に手抜いてたわけじゃなかろうけど)人だと信じていたので、なんか……失恋した気分で。好きだけど、好きだからこそ、プロでいてほしかったんです。この時期の貴って結構脱力してプレーしていたから、緩慢に見られがちでした。それで(全然それだけじゃなくて純粋に打てなすぎて)1軍の西武ファンのヘイトを溜めていて不満でしたけど、こればっかりは庇いようがなかったです。
 この後また下がったときに残念さがあまりなくなりました。そしてこのとき、パッとしない30代の外様である貴の、今季でのクビを現実的に考えるようになりました。自分が編成ならまず対象に挙げるでしょう。ごめんね貴……(´;ω;`)
 最終盤、ホーム最終戦後に上がって、現役最後の出場を遂げていました。札幌ドームで藤井秀悟から、ホームラン相当の天井直撃弾を放ったらしいです。それ以前もちょくちょく上がったり下がったりしてたけどなーんか自分が観に行ったときに限って出場しておらず、私が最後に公式戦で貴を観たのは9月10日でした。サードスタメン、2の0で、出された代打は奇しくもジャッキでした(この年のジャッキのバッティングは戦力になりました。守れなくてもイライラしない。ああいう選手にお金と時間を費やしたいですよね)。

 優勝した日ハムでは、野手転向した糸井がブレイクして、左右は違えど貴もこういう三拍子揃った中距離ヒッターになっていたらなぁ、と羨ましく思ったのを覚えています。そしたらこの年は序章に過ぎず、あの人(人?)は比較にならない化け物でした。
 西武はCSにも進めず、残念なシーズンでした。後ろが終わってた投手陣唯一の救いが、沢村賞の涌井。いっぱい波がくる人なので断言はしませんけど、投げに投げまくってキャリアハイの1つでした。打撃陣ではおかわりの2冠王。その記念タオルが、寝室のMyおかわりタオルコレクションの1枚目です♡

 シーズン終了早々に、貴は、2回目の戦力外通告を受けました。覚悟していました。本音は……寂しかったですけど、ぐっと我慢しました。
 本人は現役続行の意思があると報道されていたので、引退試合も兼ねて神宮で行われる第2回トライアウトに行きました。そしたら貴は不参加で、ありゃりゃりゃ。参加者、特に野手が超少なく、スタッフたちが守っていたくらいでした。ぶーぶー。もう貴に会うことは多分一生ないんだなぁと改めて気づき、たかが走塁ミスくらいで愛想を尽かせてしまったのを少し後悔しました。もう1度姿を見たかったけど、見たかったけど……涙、最後だと思って見るのも辛いし、仕方ないですかね。
 結局、1回目のトライアウトに参加後NPBからの打診はなく(他球界からはあった)、引退を選びました(去就を正確に知ったのは後述の報道と同時ですが、その前に私の中で勝手に幕引きしました)。思い描いていた通りにいかなかったかもしれないけど、最高のステージを心置きなく走り抜けたのではないでしょうか。本当にお疲れ様でした。プロ生活9年。まだあった年金制度の適用とか、一生フリーパスまであと1年。惜しい!

 西武移籍後は「推しは推せるうちに推せ」根性で見守れた2年でした。出場した試合は1軍計10試合、2軍計31試合観戦しました。嫌いもしましたが、巨人末期のように無関心では決してありませんでした。2年前の焦りや後悔より落ち着いた形で、貴の現役引退をしっかりと受け止められたと思います。


引退

嬉しいニュース

 もう貴のことなんか忘れて数学していた年明け、貴に関する報道を読みました。さすがモリシ。これが俗に言う「教職とって、ウチ来るか」です。先生かぁ〜、完全に盲点でした。ぐふふ、僕ちんも貴センセイにイロイロと教わりたいなぁ。
 じゃあなくてですね、私はこの決断に対して非常に感激しました。実は貴、プロ野球選手か学校の先生(野球の指導者)が将来の夢だったことを思い出しました。それらを時間差で両方とも叶えようってんですよ。すごくないですか? 今さら先生になるって大変な話です。元々勉強ができる方だったとはいえ、全然別の畑でずっと身体を資本に働いてきて、30過ぎてから毎日座って勉強するんですよ? 仕事もしながら。仕事覚えるだけでも大変なのに。しかも、不足単位取得と実習で数年、公立なら採用試験は狭き門だし、その後にすぐ赴任できたとしても2年先生に専念して、ようやく指導できるんです。全く違う環境での長丁場の戦いです。
 宣言してしまった以上、断念はできない性格です(多分)。でもきっときっと、きっと貴なら、やりきれるんだろうなと信じました。貴が新たな夢を見つけたことが、うれしくて、うれしくて、胸が張りさけそうで、たくさん涙を流しました。ユニフォームを着る貴をいつかどこかで見られるかもしれない。そのときがきたら、私も貴ファンの引退を撤回しなきゃなぁ!

 のちに、続報の週ベや新聞記事、TBSの俺たちはプロ野球選手だったも見ました。ちょっと老けた気がする……というか、運ちゃんのときと学校のときのテンションの違いが……。ダメよそんな顔に出しちゃぁ。まぁ大変なのは確かだろうからね。あと、プライベートでびっくり情報。おめでとう!!!
 それにしてもTBSさん、いつもありがとうございます。TBSからしたらプライベート切りさいて協力してくれる貴に感謝しないといけないですよ。その代わり、貴の出てるスポワン×3、筋肉番付、プロ野球戦力外通告、俺たちはプロ野球選手だったを再放送してくださいお願いします! 何でもしますから!

『東洋大学報』第228号 平成23年7月20日「Special Interview 三浦貴さん」
https://www.toyo.ac.jp/assets/about/1917.pdf
 ↑がんばっている貴を取りあげたコラムがありました。「毎日の授業が楽しくてしょうがない。」って素敵ですね……! なぁなぁに進学してろくに勉強も研究もしない学生より、こういう人が勉強するために大学という場が提供されてほしいなと思いますよほんと。研究職志望以外は高卒で就職して経験積んでから、必要性を感じて高等教育を受ける方がよいのでは。お金もあるし。歳とってから学ぶこと、学び直すことは恥ずかしいことではなく、それがメジャーになってほしいくらいだというのが私の戯言です。
 ここで貴が述べている「誰もがうらやむような豊かな才能に恵まれながら、考える力が足りなかったばかりにその才能を開花させることができず、結果としてクビを宣告される選手」ってもしかしたら、(他の選手より考える力が本当に足りなかったかは置いといて)昔の自分自身なのかもしれません。こういう挫折を経験してきた人って、きっとよい指導者になってくれるのではないでしょうか。
 あとね、老けたって前言撤回、やはり若い! かっこよすぎる! 尊い! 肩が! 肩モリモリ! こんな人の近くで講義とか受けたら集中できんよ……一緒じゃなくてよかったぜ。

私の就職

 貴の第2の夢への挑戦をうけ、非常に感銘を受けた私。自分の人生を考え直しました。数学したい。でも、こんな猛者どもの中で数学を極めるのは厳しすぎる。その逃げ道として、好きな野球に逃げようと何度も思い、某記録員採用試験を受けたり、某球団のインターンを経験したりしました。ですがこれはあくまでもお遊び、野球に携わる思い出づくりであって、本気にはしていませんでした。
 昔から野球に関する職に興味はあったんです。高校入学時に野球部の監督の下へ行って「野球部の監督になりたいです。どうしたらよいですか?」と尋ねるキチガイムーヴしたとき、先生はこれっぽっちも怒らずに制度上の話をしてくれました。そして、監督は采配だけじゃなく、監督業・コーチ業、マネージャー業、選手の仕事にどんなことがあるのかを、4日間つき添って教えてくれました。野球部の練習ってちゃんと見たことなくて各メニューの意義とかさっぱりで、まだまだ勉強不足だと思い知らされました。本当にやりたいことが監督業なのかよく考えて、それがはっきりしたら報告するように言われました。私の出した結論はNoでした。私の興味は特定のティーム強化より、試合を俯瞰的に観る方にあるということがわかりました。やりたいのは、野球を面白く観ること魅せること。選手やティームや采配を評価すること。解説者や評論家、スカウトマンになりたい。
 もう一度、その夢を思い出しました。野球は決して逃げじゃない。私は数学も野球も好きで、本当は数学も野球もしたい。数学で野球がしたいし、野球で数学がしたい。そう、自信をもって言いたかったのです。ずっと前から。高学歴なのにスポーツなんかに逃げたの笑、自分が納得してるならそれでよいんじゃない笑、みたいに思われることもありました(失礼な話ですね)が、せっかくならそれを活かしてできる道を模索しました。

 まず、近々で募集のあった某球団の職員採用試験を受けました。中途採用しかなかったのですが、履歴書で事情を説明したところ、書類選考に通りました。その後の選考兼雑用は、要約すると、データで編成を組むフロントと、データで采配を振るう監督になる、という破天荒な提案をしました。あと当時としては珍しい、試合をタダでネットに垂れ流す等。こんな人体実験が許されるわけないのに冒険してみましたが、まさかの通りました。大学3年で退学か休学しないと通勤できなく、卒業したかったので、1年待ってもらう内々定になりました。その後この球団とは連絡をとり続け、無知ながらいろいろと提案させてもらったり、経営について……多少は学んだりしました……けど……相当ひどいものでした。特定を避けるため事の顛末は書きませんが、残念ながら当然(ドン引き)、球団の都合で内々定取消になりました。
 この試験に関してはたまたま上手く? いったものの、行き当たりばったり感は否めませんでした。数学やってましたくらいじゃ、アピールできる強みも、仕事に就いてから発揮できるモノもありません。それまでなんとなく院進するのかなと考えて就活していなかった私でしたが、野球につながるような勉強を積んでちゃんと仕事したいと決意しました。学部のゼミは1番興味のあった解析でしたが、ちょっと方向転換。生命認知科学やバイオメカニクス等の候補の中から、真剣に学んできた数学と親和性があり野球に活かせる、野球を面白く見せられる手段として統計学・確率論をきちんと学ぼうと思いました。研究テーマに野球を入れてくれる統計の研究室や先生を探しました。
 貴が夢を実現するために向こう数年がんばると決めたんです。私だって野球につながるB4・M1・M2を過ごすんだと本気になりました。所属していた数学系の研究科の応用系と、情報系の研究科、2つの統計の研究室に合格し、後者を選択しました。

 修士でいきなり未経験の情報系に進んでしまったがゆえ、プログラミング猛者の中に自分だけゼロという状態。結局測度論の理論寄りに逃げました。英語の発表も不可能で、辛いことだらけでした。ただ、先生がとんでもなく大物でいらしたのが功を奏し?、コネ? でスポーツ統計の経験を積むことができました。スポーツの専門学科ではないため、他研究科にも通うなどして、せめてものスポーツに関する勉強だけは精進し、多方面から知識を身につけることができたと思います。
 この時期に、スポーツ統計から野球を観るセイバーメトリクスや、スポーツデータアナリストという職業があること、日本では発展途上であることを認識しました。そしてそれは、私が昔から紙や2chに書きこんだり妄想したりしていたことに非常に近く、野球を面白く観ること魅せること、選手やティームを評価することそのものでした。

 それが実現できる会社は、ここだろうか。毎日お世話になっているコンテンツを提供してくれている、とある会社に焦点をしぼりました。実は、データコンペに参加した際にその会社のデータを触らせてもらう機会があるという、ほんのちょっとの接点がありました。野球でない競技に関するエンジニアの中途採用だけ見つけたので、ダメ元で応募してみました。募集しているのとは違う競技で、エンジニアじゃなくて、働いた経験ないけど、どうしても野球にかかわりたい、と書いて。
 幸いにも興味をもってくださって、いきなり取締役社長と面談させていただきました。訪れたオフィスはスポーツに溢れ、夢のような空間。「うちは新卒は一切とらないんだよ」とおっしゃったので、「では、私を1人目にしてください」と頭を下げたところ、サッカーの課題を頂戴しました(ちなみに私より前でも、〇〇大△△部閥みたいなのがあり、バイト経由で新卒はとっていました)。その後私のチョンボがあってどうなるかと思いましたが、なんとかインターンという形で働かせていただくことになりました。
 他にも、体育施設やスポーツ庁関連の機構、私大職員で正社員の地位も用意していただきましたが、自身がゾクゾクする仕事ができそうかを基準に考えたら、圧倒的にこちらの会社でした。

 わかりにくいですが、上の「自分」は私のこと、一人称です。私が貴のことを時折、「恩人」とか「人生を変えてくれた人」と表現するのは、このことがあったからです。他人から見たら、こじつけじゃん、何を大袈裟なと感じるかもしれませんが、三十路過ぎた貴が第2の人生に舵を切った報道は、挫折しかけの私に大きな大きな大きな勇気をくれました。

 浦学ファンにしてくれたこと。スポーツ業界に飛び込ませてくれたこと。

 パフォーマンスで感動させてくれた選手は数多 いれど、こうして人生の転機に現れて心奮い立たせてくれた人、実際に行動に移すに至った人は、後にも先にも貴しかいません。その点で、貴には本当に感謝しています。まぁ、本当はもう1つ、我が人生の重大事件に直接かかわってくれたんですけどね……自重。
 ↑ポストの「よくも悪くも」というのは嘘で、よいことしかありません。人を持ち上げるときに照れが出ちゃう、私の悪い癖。ポスト内のコラムは日刊の会員登録が必要なので、↓のリンクからお読みください。

 インターンとして9ヶ月働いた後、契約社員となることができました。新社会人ということで、会社の研修体系も変えてもらって育ててもらいました。アスペ(ってより主にAPD)が原因で、電話応対や議事録等物理的にできないことも多くて迷惑をおかけしてしまい、夜は毎日のように泣いていました。体育会系では当たり前の「はきはきと挨拶する」さえできなくて、ほんと嫌でしたが、のらりくらり生きることで周りが徐々に諦めてくれて、少しですが溶けこめたかもしれません。野球好きという共通点があってよかったです。
 物の例えは全部野球だし、デスク周りは野球グッズで固めてるし、年齢聞かれるときに「高3の甲子園どこが優勝した?」だし、なんJの高級なver.みたいな会話しかしていないし、もう最高の職場でした。一般社会でついつい野球の話に脱線してウザがられてしまう私の同類項しかいないんです! 野球以外も、相撲やジャンプをガチれる人、現実世界で出会ってこなかったから、めちゃくちゃ感動しました。

 データ分析は慣れてきましたが、分析手法よりまずは取得とクレンジングですね。いろんな生データ触ってつくづく思うんですが、この会社所有のものは人海戦術のお蔭で相当きっちりと取得されています。すごくきれいです。巷にはほんと、ろくに取れていないデータとか、必須なのにそもそも取っていないデータとか、ざらにありますからね。全く信頼ならん方法で取ってきたデータ使うくらいなら、まともなデータから推定した方がよいです。その算出式を導くための信頼できる実験も必要ですが。
 ろくにプログラミングできず、データ整えてツールにとりあえずぶっ込む人間と化していました。エクセル主体でそれっぽいツールつくったり、負担少なくなるアクセスのクエリ作成したり。こんなレヴェルでも重宝される世界です。
 それから、まとめ方と伝え方。結局はプレゼン力です。研究者と脳筋の仲介をせねばならない(少なくとも今は、脳筋側にも理解力ある人々は多いと思います。お互い歩み寄れるとよいネ)。相手に合わせて適切なことを抽出して伝えること、それも即座に。そういうのが重要でした。時間かけて、都合の悪いことも隠さずに淡々と報告すべき論文とかの方が自分の性格には合っているんですがね、業務の方がエキサイティングですよ。予想屋なんて、ドーパミンドバドバでたまんないっすよ。

 業務は本当にキラキラしていました。私は、誰かの役に立ちたいというモチベが欠如している人間ですが、担当する業務はほとんど、自分を含む野球バカのためのもので、やる気ありまくりました。ティーム向けの業務もメディア向けの業務も、基礎研究に近いこともたくさん体験できましたし、上が柔軟でどんどん挑戦させてもらいました。トラッキングデータが日本球界に入ってきた時代だったので、特にワクワクしました。
 私は野球以外のスポーツ全般も大好きなので、他競技の業務もたくさん担当させてもらいましたね。24時間365日スポーツに囲まれて数学も活かせて、こんなに幸せな日々はありませんでした。

 楽しくて仕方ない代わりに、やることが多くて大変でした。終電も泊まりも常習化。コラムもスライドもどんどん納期がやってきて全っ然間に合わないし、データ分析は全部1人で作業するのでミス連発。
 でもそれ以上に苦しかったのは、話すことでした。お客様向けも内輪のMTGもプレゼンしたくないし、球場やイベント会場、飲みの席は反射で会話を聞き取れないことが多く、トークは地獄でした。学会発表くらいですね、まともに話せたのは。臨機応変な対応も厳しい。生放送とかマジであり得ないです。自分がこんなにヘタレだとは思いませんでした。
 せっかく無理を通して入れてもらったのに、私の心身は悲鳴を上げてしまいました。約3年で独立して、約5年半で業務委託もやめることになってしまい、会社の役に立てず、本当に申し訳なかったです。特に、多くの業務を共にさせてもらい、私の教育係としてお世話になったある同僚には、何と申してよいのか。もうかかわりはございませんが、その会社の大ファンであることには変わらず、そこで出会った人、出会った業務、出会ったデータはいつまでも好きであり続けたいです。

 独立後も、多くの野球人に会うことができました。超マクロにも超ミクロにも野球という競技や文化を学べて、すごくよい経験だったと思います。そこでもやはり、話すことへの苦痛はついて回りました。それに、「野球ド素人の○性に解説されたくない」という偏見や、外見のみで内容を取りあってくれないメディア視聴者にも、飽き飽きしました。私自身が前に立つのはもう御免です。
 私が自由奔放な人間なので、独立した方が合っているかなと思ったのですが、とんでもなかったですね。ある程度制約がないと本当にダメになります。今は趣味とボランティアでスポーツ界と接している状況です。

仕事で訪れたあるイベントの様子①
仕事で訪れたあるイベントの様子②

※ 見出し画像は、グラウンドレヴェルの西武ドームの様子。試合前練習時にお邪魔した。

 

三浦貴さんの記憶① ~プロ入り前~
三浦貴さんの記憶② ~巨人時代~
三浦貴さんの記憶③ ~西武時代・引退~ ←この記事
三浦貴さんの記憶④ ~指導者時代~
三浦貴さんの記憶⑤ ~さよなら~

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