それでも部活経験者を愛したい
個人的な趣味でしかないが、わたしは体育会系の経験がある人と仲良くなりやすい。今回はその理由を考えてみた。
特に、中高における部活動に疑問が投げかけられている社会である。
理由は幾つかあると思うし、理解できる。
長時間拘束され、その間勉強はできない。お金もかかる。顧問や先輩の理不尽な命令に従わなければならないなど、無駄なことに耐えなければならない場合もある。
また教師側の負担も大きすぎる。これも痛いほどわかる。
なにせ両親が高校で陸上部をもつ主顧問であり、休みが全くなく安月給で土日も休みなく働いていたのを嫌というほど見てきた。
周りに、中高を部活に捧げ、昼夜練習し、何のためにあんなに頑張っていたかわからないとこぼす友人もいる。そういう人はあの時間をもっと有意義に使えばよかったと嘆いている。しんどかった経験が、結局、なんの役に立っていないと感じているようだ。
それでもわたしは、中高ないし大学で自分の打ち込めるスポーツと出会い、自分と向き合って頑張ったことがある人が好きだ。なんの役にも立っていないわけでは決してない、その経験の何らかが人格形成に作用しているはずだ。
そもそも私の考え方は体育会系に近い。体育会経験がある人と馬が合うのは当たり前である。家庭がガチガチの体育会系で育ち、集団行動が好きで、上下関係もそれなりにうまくやれるし、そもそも根性がある人と気が合う。体を動かすことも大好きで、アクティブなタイプに見られる。
上記のような私の特性をさっ引いても、わたしは体育会系の経験がある人が好きな気がする。
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負けた経験がある人が好きなのかもしれないとふと思う。頑張って頑張って、その上で負けたことがある人はやさしい。優しくて強い。自分と向き合ってその上で絶対的に負けることを知っている。世の中が理不尽であることを体で学んでいる。こういうことを頭で知っているだけの人とは出てくる言葉が違うような気がする。
スポーツは残酷だ。負けるときには能力か練習量かメンタルか、絶対に自分(または自分のチーム)に理由がある。「負けに不思議の負けなし」という言葉があるが、本当にそうだと思う。
その点、文化的な音楽や絵画には、順位こそつくが、その順位はコンクール等で誰かにつけてもらった点数による。
本当に同程度の実力の2者が競ったとき、順位を決めるのには審判の主観や好みが入ることもあるだろう。
大学ではアカペラサークルで音楽で競った経験もあり、コンテストやコンクールでの審査をたくさん見てきた。結果に納得いくときもあれば、なんでそっちが勝つねん!と納得がいかないときもあった。他人が決めているのだから仕方がないことだ。
だがスポーツにはそういった曖昧な観点はない。引き分けはあるかもしれないが、その日の調子を含めて全て実力で勝負が決まる。
特に、多感な中高と言う時期に、あの絶対的な負けの痛みを知った人が好きだ。真面目に取り組めば取り組むほど、あれは痛い。それはそれは突き刺さる痛さだ。
陸上で0.01秒差で7位になる痛み。
テニスで自分が最後ダブルフォルトをして負ける痛み。
勝負1回のために、どれだけ練習することか。どれだけの時間を費やすことか。それでもいつかは負ける。よく言うことだが、全国優勝しない限り、どこかで負けているはずだ。勝ち続けられる人間なんてほんの、ほんのひと握り。負けるために練習するといって過言ではない。
この痛みを生き抜いた強さ、尊さを私は愛したいのだ。