4/10はきょうだいの日-セルフネグレクトについて思うこと-
4/10は「きょうだいの日」らしい。
昨日まで知らなかった。
なぜ平仮名表記なのか。
きょうだい児のことを指すのかと思っていたら、どうやらそうではなく、障害の有無や性別の組み合わせや順序に関係なく兄弟姉妹を表すための平仮名表記らしい。
きょうだい。
きょうだい児の人は、たまに平仮名で検索をかけるのではないだろうか。
自分を何かにカテゴライズすることは好きじゃないけれど、わたしもいわゆるきょうだい児である。
精神障害と発達障害を併せ持つ姉がいる。
noteでも、きょうだい児特有の葛藤を発信している人がいる。
リアルの世界ではきょうだい児は障害児の影になり、その苦労は半ば無いものとされたり、存在そのものが透明化しがちである。
だからきょうだい児は自分の心のわだかまりの原因の答え合わせやその解消を求めて、ネットで検索したりしているのではないか。
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最近気づいたこととして、
もしかしたらきょうだい児はセルフネグレクトに陥りやすいのではないか。という疑問。
何というか、きょうだい児は障害児が親にケアしてもらっているところをみているばかりで自身に目を向けられた経験があまりなく、単純に自分は自分自身をどのようにケアしたらいいのかがわからないのではないか。
後回しにされることで機会を損失してきた経験を思い出すとき、わたしの中にもセルフネグレクトの芽があり育っていたことに気づく。
わたしは就職して自分で稼ぐようになってから、エステや歯列矯正など、なるべく長期に渡って身体を改善していく美容に課金していた。
その気持ちの底には、自分で自分をケアすることで腐らずに生き延びようとしていたのかもしれない。
自分との約束というか、自分で自分のプロジェクトを仕掛けないと生きていけない気がしていた。
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障害児と対比させる用語でご丁寧に韻を踏んだきょうだい児を一言で表すとどんなものか。
わたしは、
「とりあえずいつも後回しにされる存在」としておく。
そのエピソードをひとつ。
わたしの母方の親族の女子は、成人の時に着る振袖はひとつのものと決まっていた。
祖父が自分の三人の娘たちのために誂えたもので、それからその娘たちの娘たち(孫)が成人する度に振袖は家々の間を巡っていた。
姉が成人したとき、その振袖は我が家にきた。
畳紙を解くと、可憐な桃色の総絞りの、裾に施された若草色の蝶々の刺繍が目に飛び込んできた。
素材、技法、図案。それらは二十歳になったことへの祝福を表す、贅沢なものだった。
姉は振袖と揃いの帯を締めて写真館で二十歳の姿を撮影した。
結論を先に言うと、わたしは成人する年にその振袖は着られなかった。
記憶の底すぎてすっかり忘れていた出来事だが、その年、姉がお見合い相手と破局したことと重なった。
母はわたしに、「お姉ちゃんがあんなことになっちゃったから、ごめんね。」とだけ言った。
「お姉ちゃんがあんなことになっちゃったから、ごめんね」
(訳:お姉ちゃん婚約破棄になっちゃったから、あなたの成人のお祝いは自粛しようね)
そのときはその言葉を素直に受け入れて自分の釈然としない気持ちには蓋をしたが、いま考えると、めちゃくちゃな道理である。
姉が婚約破棄したからと言ってわたしの成人を祝うことを自粛する理由にはまったくならないんだけど。
もしかしてお母さん、わたしの成人をお祝いするのが面倒だったのかな。
疲弊した母は単純に下の娘にまで振袖を着せるのが面倒くさかっただけなのかもしれない。それに母にとっては二人いる娘のうちひとりには着せたし、勤めは果たしたつもりになっていたのかも知れない。
小さなことだけれどそんなことが日常的に積もっていけば、自分でも自分を後回しにして問題のない瑣末な存在に思えてくるからいけない。
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きょうだい児の友達は学部時代に3人知り合った。そのうち2人はいくらでも近隣に充実した美大がある関東出身の子だった。
わざわざ地方の芸大に進学した理由の背景には、自宅から通いたくないという気持ちがあったという。
大いに共感した。
その時わたし達は、きょうだい児でいることはしんどい。
というフックで繋がっていたように思う。
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2022年の6月に、わたしは母に
「どうしてわたしを産んだのか」と聞いた。
基本的に母のことは好きだけど、姉には些細なことでも気にかけるのに、わたしのことではまったく無頓着になる母のその一面に限れば憎いのでそう放言してしまった。
(母本人はそのことに無自覚だから、親というものは罪深いし恐ろしい。)
随分と強い言葉を投げたと反省している。
でも後悔はしていない。ずっと聞いてみたかったから。
わたしは母に求めすぎているのかも知れない。
母に、姉もわたしも別個の生きづらさを抱えていることを知ってほしかったのかも知れない。
でも母は、障害児でもきょうだい児でもないからこの苦しみはわからない。
母だってわたしたちを産まなければ苦しまなくて済んだ面は多々ある。
それはもう仕方ない。
それぞれの地獄があるということで。
わたしたち三人、痛み分けということで。
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これを読んでくれた人の中にも、後回しにされたり蔑ろにされたりして、いま寂しい思いを抱えている人がいるのだろうか。
もしそんな人のもとに届いているのなら、可能な限り、自分勝手に充分に自分のケアに心血を注いで生きていってほしいし、
よく聞く「寂しいのはあなただけじゃない」という言葉は、
「自己憐憫すな。頑張れ」 という意味ではなくて、
「こんなことされてたら寂しくなって当たり前だよね。わかる。この理不尽な世界をともに生きのびよう。」
そう翻訳して受け止めてみてほしい。
そうしてひとりぼっちな気持ちが緩和されるといいなと思っている。
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長くなったけど、とりあえず、漫画の世界では「親殺し」がテーマのものが豊富にあるから、くさくさしたときは読んでみることをおすすめします。
家族を形成、運営するのは難しい。と感じている漫画家の作品は面白い。
(ちなみにお薦めは山岸凉子の「汐の声」「天人唐草」、あと短編集ほぼ全般(めちゃ怖い)、押見修造「血の轍」、萩尾望都の「残酷な神が支配する」、乃木坂太朗の「幽麗塔」「夏目アラタの結婚」です。)
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