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猫と僕の道

苦い珈琲。
ここの珈琲はとびきり苦い。

店内はケルト系の愉快な音楽が流れている。

パスタとチキンのハーフランチセット。
甘めのトマトソースとデミグラスソース。
ルッコラと共に盛り付けられ、良い彩である。

穏やかな午後にぶらりと立ち寄った行きつけのカフェ。

数日前には真っ新のアルバムと共に訪れた。
それに載せる予定の想い出は未だ見えないが。

窓の外に覗く濃い緑。
真夏の柳。

赤い窓枠に黄色の額縁。
描かれているのは美味しいトマトソースの作り方。
しかし、読み解けるのはほんの一握り。
外語に疎い僕にはさっぱりだ。

テーブルを挟む、向かいの籐椅子へ座るのは、今日もご機嫌のメメである。

ところで、メメと言うのは僕の猫の事で、家猫と野良猫の中間くらいの、気まぐれな女王様だ。

それが今、僕の眼前で優雅に水を舐めている。

このカフェへ訪れる時は決まってメメが伴をする。
どうやら彼女の縄張りらしい。
店員の忙しなく立ち働く様を見て、
「重畳。」
と満悦そうに喉を鳴らす。
彼女は全く人間そのものだ。

食後にアイス珈琲を注文し、読みかけの本を開く。
表紙は物寂しい田舎町の油彩画。
何処となく僕の山小屋を彷彿とさせるが、それはずっと彼方にあるはずだ。

僕の心臓は鼓動を速める。
緊張しているのでは無い、胸に迫るものがあって苦しいのだ。

「にゃおうん」

テーブルに乗り、猫撫で声で呼ぶのはメメだ。
彼女は僕の顔を不思議そうに眺める。
そして、その小さな手をひらひらと本へ掛けた。

次の瞬間、剥き出した爪で一思いに表紙を引き裂く。
否、引き裂かれたかに思われるほどの強さで、僕の手にあった本はテーブルへ叩き付けられた。

「ちょっと、メメ。何するんだ!」

慌てて本を拾い上げると、表紙には一筋の深い傷が刻まれていた。

「にゃぁおう!」

メメの方も一際鋭く声を上げると、再び大きく手を振りかぶったので、すんでの所で僕は本を懐へ引き込んだ。

「何、気に入らないの?」

僕が眉間に皺を寄せると、彼女は満足したように椅子へ戻り丸くなった。

この不可思議な言動に僕は暫し閉口し、ぼんやりと窓の外を眺める。

眼前の広場では、人々がベンチに座り思い思いに過ごしている。
多くは一人静かに本を読んでいるが、中には横になって昼寝に勤しんだり、友人と談笑に耽ったりと、平和な日常が流れている。

僕は少し、クラクラして来た。
アイス珈琲はアルコール入りだったか。
そんなはずは無い、僕が酔ったのはこの本のせいだ。

平和な日常を良しとしない、沈鬱なこの物語のせいだ。
だから物語は好かないと言ったのに。
この現実の方が余程ましなのは、詰まらなくとも平穏無事だからだ。

却下。

それは結局、本当に自らの道を歩んでいると言えるのだろうか。
しかし、それもいち物語に過ぎない。
では、自らの道とは一体?

「よし、畑へ帰ろう。」

唐突に立ち上がった僕に、メメはちらと一瞥をくれたが、最早何の感興も沸かないと言った風情で、ぴくりとも動かなかった。

僕は寂しく、独り家路を急いだ。

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