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映画「ゴーン・ガール」〜この世は舞台、人は皆役者〜

友人に猛烈に勧めらた映画、「ゴーン・ガール」

検索してみると、2012年に発売された小説を基にしたサイコロジカル・スリラーだとか。(映画公開は2014年)

〜サイコロジカル・スリラーとは〜
精神的、感情的および心理的状態に起因する恐怖により読者、視聴者、またはプレイヤーを脅かす、妨害する、または不安定にするホラー・フィクションのサブジャンル。

私はホラーやスリラーにあまり食指が動かない人間なので見ようか見まいか迷ったのですが、見ようによっては結婚生活の闇を風刺したブラックコメディ映画だ、と聞いてグググッと鑑賞欲が高まり、見てみることにしました。
字幕版ならネットフリックスで無料で見れます!

下記のどれかに当てはまる人にオススメの映画です。

⭐︎“結婚”について最近よく考える
⭐︎湊かなえ作品が好き(イヤミス系です。映画を見てハッピーになりたい人は回れ右)
⭐︎朝井リョウ作品が好き(最初に提示された見え方が、後半にグルッと逆転させられる朝井リョウお得意の手法に近い構造です)

では、簡単にあらすじ(前半)をまとめたいと思います。
※ネタバレ注意※

〜前半〜
周囲から羨ましがられるような理想的夫婦のエイミーとニック。
そんな彼らの結婚5周年記念日に、突如妻エイミーが失踪!
当初は同情される夫ニックだったが、次第に不利な証拠が次々と出始める。
近所の主婦が「エイミーは夫の暴力に悩まされていた」と証言したり、夫婦の家の床から大量の血液を拭いた痕跡が検出されたり、発見されたエイミーの日記に「いつか夫に殺されるかもしれない」と書いてあったのだ。
悲劇の夫から一転、ニックは妻殺しの犯人としてマスコミに叩かれ始める。
エイミーが妊娠初期だったことも相まって、ニックは世間から“身重の妻を殺した鬼畜”と見なされる。
警察も「奥さんの生命保険の受取金額が最近引き上げられている。あなたはカードで散財をしている履歴がある。金に困って殺したんだろう」とニックを尋問。
ニックは身の潔白を主張するものの、実際、若くてセクシーな娘と1年半に渡って不倫をしていた。

ここまでは“人間の心の機微を丹念に描写した〜云々”とかではなく、シンプルに「エイミーは誘拐された?それとも殺された?ニックは本当に潔白なの?」みたいなドキドキを楽しんだり、事実か否かはともかくイメージで同情したり叩いたりするマスコミや世論の軽薄さ・怖さを味わう映画でした。

面白いのは後半から!

なんとエイミー、生きていたのです。
なんならピンピンしていました。
全てはエイミーの計画だったのです。

見下していた近所の主婦とわざわざ仲良くなって夫の(ありもしない)暴行癖を相談したり、ニックのカードで勝手に大量の高額商品を購入して散財癖を演出したり、偽の日記を300日分書いたり・・・
大量の血を床にぶちまけ、拭き取ったのも、全てエイミーの自作自演でした。(献血器材で自力で上手に採血してました。器用なエイミー)


なんでそんなことするの?なんのために?


エイミーの狙いは、ニックを死刑に追い込むことでした。


怖すぎる・・・

不倫への制裁?いいえ、根本的な原因はそこじゃないのです。


少々長いですが、エイミーの独白を引用します。
この部分にこの映画の主題がほぼ全て詰まっています。

「ニックとエイミーは元々存在しない。ニックが愛したのは私が演じた“いいオンナ”。男はいつも褒め言葉として言う。『彼女はいい女オンナだ。いいオンナは何でもしてくれ、いつも機嫌よく絶対に怒らない。恥ずかしげに愛情深く微笑む。』(中略)ニックもいいオンナを求めていた。だからそうなろうとした。彼が望むことをした。一方私は彼に知性を与え、彼を私のレベルまで引き上げた。“理想のオトコ”を偽装したのだ。お互い別人を演じて幸せだった。世界一幸せな2人。でもニックは怠け、“願い下げのオトコ”に成り下がった。それなのに無条件で私の愛を求め、事もあろうに若い巨乳の“いいオンナ”に乗り換えた。私を破滅させ、ニックだけ幸せに?冗談じゃない。勝ち逃げはさせない。ニックに思い知らせてやる。大人は努力すべきだ。大人は償うべきだ。大人は報いを受けるべきだ」

エイミーが腹を立てたのは、ニックが理想の夫を演じなくなった事に対してでした。不倫は最後の決定打ではありましたが、一要素に過ぎません。
根本的な原因は、演じなくなったことに対してだったのです。

これはかなり、興味深い動機です。
“結婚とは、夫婦という役割を互いに演じ合うものだ”なんてそれだけ取り出して聞くと結婚に対して悲観的すぎやしないか?という印象を受けますが、よくよく考えてみると“演じること”って結婚に限らず他者と心地良い関係を築き持続するためには必要不可欠な要素かもなぁ・・・と思ったのです。

「いやいや、本当の信頼関係を築くためには演技なんてしちゃダメだよ!」
「演じ合うような人間関係?そんなの偽物だよ!」

そんな意見もあるでしょう。
確かに「演じる」と言うと聞こえが悪い。
でもこれって、「努力する」とも言い換えられますよね。
(エイミーも独白の中で大人は努力するべきだと言っていました)

数年前、アナ雪のレリゴーが流行りましたが、私はあの歌が好きではありません。
ありのままの自分で愛してもらえるのは、乳児〜幼児だけです。
どんなに美味しい人参だって、泥のついたありのままの姿じゃ美味しくない。
生で食べるにしたって、最低限泥を洗って皮を剥くくらいの努力が必要です。

それは他者への礼儀であり、思いやりです。
全く演技をしないありのままの姿の2人より、互いの幸福ための程よい演技をする2人の方が、成熟した人間関係だと思うのです。

だからまぁ、演技をしなくなってしまったニックにエイミーがご立腹されたのも納得でした。


が、しかし。
エイミーがニックに求めていた演技は余りにも過剰でした。
互いの幸福のための演技ではなく、他者から見た私たちが幸福に見える演技だったのです。
実際に彼と私が幸福であるかはどうでも良くて、世間から見て私たちが幸福そうに見えることが肝心でした。

エイミーは自作自演の失踪劇の後、数々のハプニングに遭遇しながらその都度逞しく対処し、最終的にはニックの待つ自宅に生還します。
「病的なストーカーに監禁されたものの、奇跡的に自力で生還した逞しい女性!ニックは一度不倫という過ちを犯したものの、全力で反省し、むしろエイミーへの愛を強くした。マスコミと警察から濡れ衣を着せられながらも愛妻を待ち続けた芯のある男!」として、2人は再び理想的夫婦と評されるようになります。

奇跡の生還を果たしたエイミーは、ニックと寄り添いながら家の外のマスコミに手を振ります。
この場面が、作中の中でエイミーが最も幸福そうな瞬間でした。
その姿はまるで舞台上でスポットライトを浴びる主演女優!!
家の中に一歩入ると微笑みの仮面をサクっと外し、ニックに対して「あんたもなかなかの演技だったじゃない」的なことを言い放ちます。
それはまるで、袖中にハケた女優が共演者と今日の演技の振り返りをするかのような姿でした。

つまり、エイミーは他者にどう思われるかに人生を捧げているのです。
観客からの拍手の大きさでしか、自分の価値・人生の幸福を感じられないのです。
うう・・・なんかそれって、シンドそう。
でも結構そういう側面って誰にもありますよね。
イイネの数やフォロワーの数で一喜一憂したり、ブランド物を欲しくなる気持ち。人は誰しも、自分の中に小さなエイミーを飼っているんだと思います。

シェイクスピアの作品に、「人生は舞台!人は皆役者!」という有名なセリフがあります。
誰もが自分の人生という作品の主人公で、自分がいる場所は常に舞台で、上演時間(寿命)が尽きるその時まで演じ続ける役者です。
肝心なのは、観客は誰か?ということだと思います。


エイミーの場合、作・演出・主演がエイミーで、観客が自分以外の人々でした。
作・演出・主演だけじゃなく、観客までもが自分!な公演を打ちたいものだなぁ・・・ゴーン・ガールを見て、そんなことを思いました。


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