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抽象化することの功罪

「抽象化」

すなわち「具体化」の対義語として定義される言葉で、複数の情報に共通する要素を抜き出して物事の本質を捉える思考法として、多くのシーンで活用されています。

『本質を理解する』

という点においてこの抽象化スキルは他の追随を許しません。

確かにITの世界…特にプログラミングにおいては、この概念がとても役立つことがあります。「抽象化」とは「共通化」であり、そのことによって同じようなものを無駄にいくつも設計・実装しなくてもよくなりますから、この共通化や抽象化は冗長工数の低減…すなわち大きなコストカットにつながる重要なスキルだったりするからです。

ですが、デメリットがないわけではありません。

そもそも、「本質」のみを抜き出すということは「本質」以外の部分をそぎ落とす(切り捨てる)ということでもあります(これを「捨象」といいます)。

一度具体的にしたものから共通項を探し出して、本質部分を抜き出す…という手順に従っていればとても有用なのですが、この「具体化」を疎かにして関係者間でコミュニケーションを図ろうとするととんでもない事態を引き起こしてしまいかねません。

たとえば、提案や説明などの場においてできるだけ内容を抽象化して、具体的事例などを一切伏せた状態で関係者間に共有したとします。

「この進め方では、問題が起きる可能性があります。
 だからこの進め方は取り下げたほうが良いと思います。」

まったく論理的ではありません。
話の筋道が通っておらず、一気にショートカットしてしまっています。

あなたが最終的な決断を下す立場だったとしたらどうですか?
私なら

「たとえばどんなシーンで、どんな問題が起きるの?」
「どのような条件を満たせば、その問題はおきるの?」
「わからないと『取り下げたほうがいい』のか
 『部分的改善でいい』のか判断できないんだけど」

というと思います。

責任ある立場というのは「(問題が起きた後で)責任をとる者」のことをいうのではありません。

「(問題を起こさないように活動する(させる))責任を負う者」

のことを言います。
当然、問題が起きない決断や判断をしなければなりません。

具体的事例や仮説もないまま、「問題が起きる可能性がある」という一文だけですべてを理解しろという方が頭がおかしいんです。そんなのツーカーの仲でもおそらく無理です。

そもそも「抽象化」できるのであれば、その逆である「具体化」ができないはずはありません。技術的には何も困難なことはないのですから。

きちんと問題点や問題が起きる条件、状況、実際に問題が起きたときの影響などがわかっているからこそ「問題が起きる可能性がある」と言っているはずです。そうであればリスクを具体的に説明すればいいだけです。

「たとえば、こうしたときに
 このような条件を満たしてしまっていたら
 こういう事象が生じ
 その結果、このような影響が出ます。
 確率はそれほど高くありませんが、顕在化すると影響は大きくなります」

といった具合です。

このような説明があれば、「じゃあ取り下げよう」となったり「では、この部分を改善すればどうかな?」といった回答が返せるようになりますが、先の説明でこのような判断をみなさんは責任をもって実施できますでしょうか。

当然ですが、具体化の手を抜けば抜いた分だけ、相互の理解や認識のブレは大きくなります。先のピラミッドの例でいえば、親子丼かカレーが食べたかったのに、「ご飯がたべたい」と言ったら、ソーメンが出てきて「今そんな気分じゃない」なんて言ったら作ってくれた人とケンカになった…そんな結果になってしまいかねません。

具体化を疎かにすれば、コミュニケーション不良が生じる可能性は格段に跳ね上がります。


プライベートはともかく、ビジネスにおいて他人に何かを求めるのであれば、できるだけ前提の説明は具体化するのがマナーです。先ほども申しましたように、具体化するための難しいスキルなんてものはありません。本当にきちんと理解していてそのうえで抽象化したのであれば、子供でも具体化することは可能です。

ですが、世の一般社会人にはこれをしない人がいます。

その理由は何でしょうか?

とりわけ難しくもないことを、徹底してしようとしない。
その多くの理由は、日ごろから「面倒くさがって」いるからです。

面倒くさがって、できるだけ手を抜く。

それでもなんとかやれていて、なんとかなってたうちはいいんですけど、そうして機会を失っているうちに具体化するスキルが成長せず、いつの間にか「具体化する」というたったそれだけのことに冗長的な時間を費やさなければらなくなってしまうくらい程度が低くなってしまっているのです。当然時間がそのぶんかかります。そのせいで余計に面倒くさくなってしまい、ますます具体化することをしなくなります。

ただ単に「手抜き」。
理由は「面倒くさいから」。

たったそれだけの理由で、

多くの人に迷惑をかけたり
多くの人の時間を無駄に使わせたり
多くの人の寿命や人生に影響を与えたり。

それを半ば確信犯のようにやっているわけです。
そう考えると、面倒だからという理由で「具体化」するスキルを伸ばそうとしてこなかった人は、ある意味でコミュニケーションスキルに対する社会不適合者なのかもしれませんね。


以前、あるトラブルプロジェクトにおいて、お客さまへの説明で困難を極めているので助けてほしいと請われて、事情を確認したのち代わりにお客さまのところへ説明しにいったことがあります。その行き帰りの中で、同行していた担当者に

 「日ごろから、ある癖をつけておきなさい」

という話をしたことがあります。

「ビジネスコミュニケーション…特に顧客やメンバーを含むステークホルダー間においては『たとえば』と『要するに』を正しく使い分けること(できれば両方を駆使すること)が重要。具体的事象ばかりで話が発散しそうになれば『要するに?』『要するにこういうこと?』といってまとめ、要点ばかりで具体的施策に取り掛かれない時や判断に困ったときは『たとえば?』『たとえばどんなケース?』『たとえばこのようなシーンにおいて…』と聞くにしても説明するにしても、枕詞のようにこの2点を添えなさい。

日頃から、口癖のようにこのフレーズをまず言う。そのあとに続く言葉は、まずこのフレーズを言ってから考える。それくらい日頃から使いこなせるようになれば、ビジネスコミュニケーションにおいて大抵のことはクリアできる。そもそもそのくらい理解してるのであればできなきゃおかしいし、理解してないのならまずはそこから重点的に自らを鍛える必要がある。立場や肩書に見合った能力ってものは必ず求められるのだから、やる前から『できない』というのではなく、まずは『やってみる』から始めてみよう。」

実際、私が話すときには「たとえば(具体化)」「要するに(抽象化)」のいずれかを軸にして話すことが多いです(口にするかはともかく)。相手に指摘や注意するときでさえ必ずと言っていいほど、このようなフレーズを使っています。しかも片方だけでおわることはなく、大抵の場合は両方を使っています。

「(要するに)〇〇です。
 たとえば、次のようなシーンの場合、通常のままでは対処しきれませんが
 ■■した場合には、△△のような事象は確実に回避できます。」

といったような感じです。プレゼンテーションのフレームワークであるPREP法などでも同じようなことは言われていますよね。

結論(P)とは要点であり、まとめられた本質です。
当然その根拠(R)も添える必要があります。
ですがそのままでは終わりません。必ず「具体的事例(E)」が求められます。
最後にもう一度結論(P)を持ってくるのは聞き手により説得力を生み出すためですが、これはプレゼンテーションゆえの構成なのであってもなくてもかまいません。

重要なのは、相手に納得していただくためには「結論(抽象的本質)」と「根拠」と「具体的事例」の3点が常にセットになっていなければならないということです。

結論だけじゃ判断できない。
具体的事例だけではどこに本質があるのはわかりづらい。

だからシンプルな方から順番に説明する。
これが正しいビジネスコミュニケーションとなります。


ですが、昨今老若男女問わず、こうしたことを面倒くさがって、抽象的な表現しか使わない人が増えているように感じます。その証拠に「もうちょっと具体的に説明してもらっていいですか?」「それでは判断できないんですけど…」と返す機会が数年前より圧倒的に増えています。

コロナ禍を経て、多くの人のコミュニケーションスキルが低下していたりしませんかね?それとも元々雑ではあったけど、以前は対面がメインだったためになんとなくニュアンスまで伝わりやすく、そのせいでなんとかなってただけなんですかね。もしそうだとしたら、今一度見つめなおして(なおさせて)早々に周囲の方々とのコミュニケーションリスクを解消しておいた方がよいと思います。

そうしないといずれ大きな判断ミスをしたり、させたりすることで自分自身も大変な目にあってしまうかもしれません。

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Takashi Suda / かんた
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