須田光彦 私の履歴書⑨
宇宙一外食産業が好きな須田です。
私は子供の頃から、ちょっと変わった子でした。
子供っぽくないところがあり、たまたま同年代の友達と遊べなくなったあたりから、親世代のよもやま話に加わるようになり、大人の話しを普通に聞いていました。
話しを聞いているうちに結論や解決策がわかってしまって、結論も解決策も言いだしてみたりと、兎に角、普通の子供とは違った側面がありました。
近所のおばさん達には、変わった子で子供らしくない気持ち悪いと、何度も面と向かって言われたものです。
4コマ漫画も、中岡先生は面白いと言ってくれましたが、今思えば4年生の男子が、料理を題材にした漫画を書くことなど、相当に変わったことです。
この普通とはちょっと違うことが、40代前半まで違和感として常に付きまとっていました。
どうして自分にとっては普通のことが、世間では普通にならないのか、本当に悩んでいました。
初めて設計事務所に入社した時も、惣菜店の弱点と解決策を瞬時に理解出来ましたが、それを伝えてもはじめは、「お前変な奴だなぁ」と、クライアントの社長にはいぶかしげにされましたし、多くの人から変わっていると散々言われてきました。
コロッケのサイズを聞いて来る設計者ですから、どう考えても普通じゃない変な設計者なんですが、その時は真剣にコロッケのサイズを教えてくださいと嘆願していました。
それが、この店を繁盛させるきっかけになるとわかっていたので、真剣でした。
でも、現象だけを取り出すと、相当に変わった変なことです。
30代後半から少しずつ心理学に興味が出て来て、自分探しというほどのことではないのですが、この違和感の正体を知りたくて独学で学んでいました。
40歳になったころだと思いますが、サイグラムに出逢います。
世間では動物占いが流行っていたころです。
その当時お世話になっていたメンターの方に勧められて、サイグラムを学ぶことにしました。
そこで初めて自分の持って生まれた特性を知り、とてつもなく安堵しました。
本当に強烈にホッとしたのを覚えています。
私は、サイグラムではタイプ12、動物占いではペガサスです。
タイプ12にとは、タイプ11まではある特性や基準で分類できたのですが、どうしても分類出来ない変わった人たちが存在している、まるで宇宙人のようで、ある意味天才とも言えるような人たちがいる、その人たちをギュっとまとめたのがタイプ12だと、開発者の吉井伯榮先生に教わりました。
のちに動物占いを開発した前田先生とお話しをする機会を頂いて、「須田さんはペガサスでしょ!」と即座に言われて、当時は動物占いを理解していなかたったのでサイグラムで言うと何かを聞いたところタイプ12だと教えてくださいました。
その時の前田先生のお話が驚きで、「動物占いでは12体の動物がいますが、ペガサス以外は全部実在の動物です。ペガサスだけが想像上の動物です。」
もうこれだけで十分でした、十分理解出来ました。
今は、変わっていることは素晴らしい特性と認識が変わりました、誇らしくもあります。
ただ、この事実を知る瞬間まで本当に苦しめられてきました。
特に子供時分は、変わっている子だ、普通じゃない、お姉ちゃんは優秀なのに弟はどうしようもないと、散々言われ続けて最悪の自己イメージを引きづっていました。
でも、大人になったら絶対に成功してやる、こんな街は大人になったら出てってやると毎日思っていました。
そんな変な子供の頃ですが、学級新聞を楽しんで書いている時、嬉しいことがありました。
いつもは変な子供扱いしている近所の同級生のおばさんが、「学級新聞面白いね!漫画楽しみに見ているよ」と、言ってくれました。
参考にして実際に料理をしてみたら、美味しかったと言ってくれました。
すると、俄然舞い上がり、それ以降ず~っと書き続けていきました。
この出来事が、感謝されることの快感を知った瞬間かもしれません。
これが、おもてなし好きへと後々つながって行きます。
5年生の時、父の職場の近くに新しい官舎が建築されて、くじ運の強い父は当たりくじを引いて、新築のマンションに引っ越すこととなりました。
それまでは自然が豊富な帯広市の西に住んでいましたが、途端に開けている東方面に引っ越すこととなりました。
木造の長屋から新築のマンションです、テンションが上がったのを覚えています。
汲み取り式のボットン便所から、水洗トイレに、チリ紙からトイレットペーパーになりました!
当時は大衝撃でした!
お風呂も石炭から、ガスに変わりました。
一瞬にして、文化的な生活に変わっていきました。
ただ、このマンションが寒くてまいりました。
木造よりも鉄筋コンクリート造りの方が暖かいイメージがあると思いますが、実際は違っておりました。
それまでは石炭ストーブだったのですが、マンションでは石油ストーブになりました。
北国出身の方はお分かりかもしれませんが、一番暖かいのは薪ストーブ、次が石炭ストーブ、そして石油ストーブです。
屈足では薪ストーブでしたからホントにあったかくて、石炭ストーブになった時は、わぁ~寒いなぁと思いましたが、石油ストーブの寒さは、この時の比ではありません、本当に寒かったです。
後々、東京に上京した時に感じた寒さは、また更にこの比どころではない地獄でした!
引っ越したのが2学期の終わりで、すぐに冬がやって来ましたが、1年目の冬は兎に角寒くて寒くて。
通常、真冬の家の温度は28度くらいが普通の帯広です、25度になったら寒くなってしまうほどです。
外気温が氷点下20度よりも下がりますので、屋内はこれぐらいないとすぐに寒くなってしまいます。
北海道でアイスクリームが一番売れるは1月2月です。
28度の室内で汗をかきながら、Tシャツ短パンでアイスを食べるのが、北海道民の冬の過ごし方です。
でも、室内がこれぐらいでないと、瞬時にして寒さにやられてしまいます。
このマンションの寒さに慣れるまで、暫らくかかりました。
このマンションに引っ越したことで、シゲちゃんに再会出来ました。
シゲちゃんの家は、一足先に建った新築のマンションに当たって、引っ越していました。
2年ぶりに会ったことでもう嬉しくて、学校が終わると毎日一緒に遊んでいました。
5年生6年生の時は、野球を一生懸命にやっていました。
父がコーチを務めていましたが、無茶苦茶おっかないコーチで、今東京に同級生のカメラマンがおりますが、「須田のお父さん、無茶苦茶怖かったよな、毎日あのお父さんと暮らしたてのは凄いよな」と、とんでもない感想を言われたことがあるぐらい怖かったです。
でも、そのおかげか少年野球の大会ではそこそこの成績で、確か3位ぐらいになったと思います。
親もこのまま中学に行っても野球をやるもんだと、父は大の巨人ファン、長嶋ファンでしたから、息子が自分の好きな野球をやってくれるもんだと固く信じていました。
きっと楽しみにしていたんでしょうが、期待は簡単に裏切られます。
それは、中学に進学していたシゲちゃんがサッカー部に入って、私が同級生らと野球で遊んでいると、中学から帰ってきたシゲちゃんが、
「光彦、サッカーするぞ、お前は練習相手だ、付きあえ!」
シゲちゃんに言われたら答えはYESです、それ以外の答えは世の中に存在しません!
野球! そんなもんやってられっか!
半分は座って休んでて、ヤジばっかり言ってる野球なんかやってられっか!
これからはサッカーだ! 世界で一番盛んなスポーツのサッカーだ!
目指すはペレだ!
大好きだった長嶋さんが、一瞬ではるか彼方に消え去りました。
単純な私はすぐにサッカーに夢中になっていきました。
ここからがまた色々と大変なことが始まっていきます。