お題頂戴エッセイ大喜利 ⑦寂しさの力
一日に少なくとも一度は、外でお茶を飲む。
理由は、知らない人の顔を見たいから。
知らない人の顔を見ないで一日を終えると、寂しいからだ。
いま住んでいる国立から中央線で、
たとえば四ッ谷までいって丸ノ内線に乗り換える。
さらに赤坂見附で銀座線に乗り換えて銀座へ。
赤坂見附あたりから、ファミリアな感じがどんどん押し寄せてきて、
銀座の空を見あげる瞬間にはすっかりアイムホームなのだ。
品川の実家にいた娘時代、家にいるのに「帰りたいなあと」といつも思っていた。
それは幸せな思い出とはいいがたい。
精神面で安心や安堵を感じられない家庭にあって、
外へ出ること、街を歩くことは、わたしにとっていつも「心の帰還」だったのだ。
家にいるときの寂しさと緊張感は、わたしの感受性を強めた。
さらに観察力、好奇心と探究心を鍛えることになった。
文章を書くことが好きになったのは、
それらを総動員して言葉を選ぶ面白さからだった。
わたしの感じた寂しさには力があった、ともいえるだろう。
ここではないどこか、家ではないどこかに心で逃げ出そう。
そんな原動力になっていたのだから。
こどもたちを育て、父を見送り母を看取り、いまは娘と二人で住んでいる。
この家には寂しさは微塵もない。
一人暮らしを始めた息子とも、会えばそこが家になる。とても幸せだ。
それでも一日に一度は知らない人の顔を見たい気持ちはなくならない。
それは、自分の観察力を使わないでいることがつまらない、
ということなのかも知れない。
「口寂しい」にも似た「目寂しい」。
いまのわたしの原動力はその「寂しさ」なのかも。
じつは最近少々危機に陥っている。
日本の人ならば、老若男女問わず、
もうすべてのタイプを観察してしまったような気がしているのだ。
知らないタイプを求めて、きょうもまたお茶を飲みにいくしかない。