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他者が記憶を持ってくる
他者による意図のない言葉、思いがけない出っ張りから、パッと何かが弾けたようにやってくる。
誰かと話しているうちに、忘れていたともいえないような、記憶の奥底にあったような、枝葉のような何かを思い出す。
それはくだらなかったり、淡い悲しみであったり、思い出し笑いだったり、記憶の薫りのような、ほのかな感情だったりする。
そんな風に曲が、曲を連れてくることがある。
1998年〜2005年の頃、Nonsuch Recordsのカタログは私にとって大きな音楽体験だった。実験的であり、ポップスであり、不思議で歪な美しい作品がたくさんで、あの頃の自分にとって、まさしく輝く黄金のようだった。
それらの作品をあの頃のような頻度で聴くことは少なくなってしまったが、記憶に残っているレコードがいくつかある。
現在もさまざまな作品をリリースしており、価値観と音楽的な文脈を感じる素晴らしいレーベルだ。
古めかしさと現代的なバランスを持つ不思議なサウンド・テクスチャーとアメリカン・ルーツの延長線上にあるソングライティングの音楽というのが、ざっくりと当時の自分にとってのアメリカーナというイメージだった。
アメリカ音楽の歴史と繋がりを持つような音楽がアメリカーナというイメージはなんとなく変わっていないが、そもそも定義が広範囲すぎて成り立ちが怪しいので、今となっては人によってイメージや意味合いが違う言葉だと思う。
特に掘り下げないけれど、あるアメリカ人のアーティストにアメリカーナってなんだと思うかと尋ねると、Jason Isbellという名前が出て、連想するアーティストって全然違うもんだなぁと驚いたことがある。
さて最近、Buddy Miller の"Gasoline and Matches" という曲をLAURELというバンドで演奏した。
この曲を演奏していて、なぜだかよくわからないが、2001年にNonsuchからリリースされたSam PhillipsのFan Danceというアルバムをふと思い出した。
T Bone Burnettがプロデューサーで、実験的でありつつもポップスな名作。
通底する要素はまったくないわけではないし、サウンドの時代性がなんとなく近いから?と思っていたのだが、、ボーッとその要因はMarc Ribot(マーク・リボー)のギターのイメージから来ているような気がしている。
ややこしいけれど、Buddy Millerのこの作品にマーク・リボーは参加しておらず、Nonsuchからのリリースでもない。
私にとってマーク・リボーの印象が特に強いのは、Tom Waitsの「Real Gone」というアルバムに収録されている(全曲参加しているわけではない)、”Sins of My Father”という曲で、改めて聴くとなんと10分超えだった。
だから印象に残っているのかもしれないが、この曲をこの長さにする勇気が果たして自分にあるだろうか…とも思いつつ、しかしかっこいいな。
つづく…
かもしれない