「ホサナ」と「騎士団長殺し」を読んだときのこと

私は、図書館にある本は、図書館で借りて読みたい派。
2017年2月24日発売の「騎士団長殺し」と2017年5月26日発売の「ホサナ」も、そうして読んだ。
どちらを先に読んだか思い出せないのだが、続けて読んだことは覚えている。村上春樹さんの著作は「ノルウェーの森」を読んだときから気になる点があってパトロールする気分で読んでいる。エンタメ的な面白さに惹かれる。町田康さんについては、ファンです、と言って憚らない。音楽も映画も本も憧れをもって鑑賞している。

それぞれに熱烈なファンを持つ、全く毛色の違う作家だが、多様な食材を摂ったほうが身体に良いのと同様に、ふたりの著作を摂りこむことに、私は健全性を感じているのだと思う。
どちらも慎重な配慮と重厚な示唆に富んでいると言う点では共通している。また、両作家とも、その経歴が、著作の味わいに反映されていると感じる(これは表現者全員か)。
恐らく早熟な知性と感性故にパンク歌手と言う表現者になり、強烈な存在感であった町田氏。作詞の評価も高かったのは、今にして思えば、圧倒的な語彙と教養が為せる技であったのだろう。そして、自身がカッコイイ。
他方、早稲田大学→アメリカでジャズに浸る→欧米文化(民主主義世界を牽引した価値観)に慣れた洗練性 のようなものが村上氏の個性だと思う。従って世界で評価されやすいのもわかる。
前者はローカルに根差し、後者はナショナル(欧米、かもしれない)に根差している。ざっくり、こんなところが私の抱いている印象。頓珍漢な勘違いをしてるかもしれないけど。
でも多分、両者はそれぞれアイデンティティの在処に忠実に言葉を選んでいる。読者は、それを無責任に(いずれかの信者になることなく)、楽しませてもらって良いのだと私は思っている。

で、である。この個性的で相反する世界観の著作を続けて読んだとき、私は少し動揺した、という話をしたい。それらは、全く違う匂いを纏っており、全く交差することのない世界線に誘ってくれるのだが、地下世界を彷徨うという共通点があったのだ。
それはどちらも、手探りの不安と不穏による、緊張した場所として描かれていた。そして、そこから出てこなくてはいけなかったし、主人公達は困難を越えて出ることに成功している。
私はと言えば、自分の境遇に困難を感じやすく、謂わば、地下の不安定な世界を彷徨っているのかもしれない。
この状況は単純に回避出来るものではなく、ひとつひとつ立ち向かって行く中で何者かの導きに遭遇する可能性が得られる、ということなのか。その冒険は、楽しくないし、とても長い苦痛を強いられる。心はとうに萎えている。それでも、地下に居続けたくなければ、耳を澄まして腕を振り回して、やれる事をやるしかないのだ。絶望的な不気味な経験をうまうま回避などできないのだよ、と言う示唆を感じたのだ。或いは、地下に降りて、そこを通り抜けなくては話にならないのだよ、か。
異なるふたつの知が、同時期に発表した内容に共通する点があるとしたら、読者はその偶然を受け取らなくてはいけないと私は感じた。どちらの小説でも「地下世界」は、主題を描くためのパーツに過ぎないから、私の受け取った示唆は、失笑ものな訳だが。
ただ、私と言う個人は、その事に動揺した、と言う話を書き留めたかった。


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