見出し画像

現代人はこれから光り輝くトンネルに入って行く

オーストラリア生まれで美人不食人類のジャスムヒーンさんは、不食について、

『食べても食べなくても良いが、食べるという行為から自由になる事が重要だ』と言っています。

水も飲まない不食のことを完全不食と言うのですが、下記に出てくる縄文人は完全不食ではなく不食人類と考えています。

不食人類とはこのような方達と考えて以下読みすすめて下さい。


不食の民縄文人はヒスイ石の波動を媒体として神や人との通信をしていました。そして、不食であることから食糧争奪に伴う争い事は有りませんでした。

詳しくはこちらに書いています。よりしければごらんください。

こんな縄文人は神の存在をどの様に捉えていたのでしょうか?

縄文人にとっての神とは地震や洪水等自然災害から縄文人を救って下さる存在ではなかったか、と考えています。また、不食の民には食糧争奪戦(戦争)がありませんので戦争根絶に対する祈りは存在しませんでした。

と言うことは、自然に対する畏敬の念そのものが神への思いに繋がった自然崇拝では無かったか、と考えられます。

一方、弥生人は不食を捨ててしまい、そのために食糧の争奪戦(戦争、殺し合い)が始まりました。

こんな弥生人は神の存在をどの様に捉えていたのでしょうか?

それは
① この食糧争奪戦に勝利しますように。
② 止むなく人を殺めてしまいましたが、どうか祟りがありませんように。
③ 地震や洪水等自然災害は小難で逃れられますように。
④ 干ばつがやって来ませんように。
⑤ 病魔には襲われませんように。

等であり、恐らく弥生人は自然に対する畏敬の念は持ちつつも、一方で自らに災難が降り掛かる事がなく、また食糧(富、権力)が確保できるように自らが1番となることを願って、神に祈りを捧げていたのではないでしょか。

換言すれば、富や権力を自らに集結させるための何よりも大切な存在ではなかったか、と考えられます。

21世紀の始まりに立っている私達は神の存在をどの様に捉えているのでしょうか?

恐らく約2400年前に日本列島に登場した弥生人とほぼ同じ概念で私たちは神を捉えていると思います。

そうなんです、私達は遥か昔の先祖である弥生人と未だに同じ考えを持っています。
ところが、その先の先祖である縄文人は弥生人とは違う考えを持っていました。

一体全体私達の精神性は何故この様な変化をして来たのでしょうか、そして今何処に向かおうとしているのでしょうか?

話は変わりますが、今私たちは5GとAIそしてloT化を用いて新しい時代を切り開こうとしています。

この3つの技術は超時短と言う物理的な変化を私達にもたらします。超時短の余裕ある生活を送り始めたならば私達は何処に向かって行けば良いのでしょうか?

しかも、3つの技術が超時短に留まらず食糧生産にまで到達すれば私達は食糧争奪からも解放される事となります。

ここまで来れば私達現代人は縄文人と何処がどの様に違うのでしょうか、考えさせられるところであります。

何れにしても私達現代人が過去に経験したことがない新しい時代の入り口に差し掛かっていることは間違いないようです。

また、今から50年程前になりますが、ヒマラヤの不食の民を取材した本が出版されました。
その頃は報道にも上らないまだまだマイナーな存在でした。

しかしながら、最近では不食も市民権を獲得して来てテレビでも放映される様になって来ています。

全世界に何万人とも20万人とも言われている不食の民がいるそうです。

5GとAIそしてloT化、超時短を可能にする新しい技術の登場と時を同じくして、全世界に不食の民が現出しています。

これは単なる偶然なのでしょうか?
それとも必然なのでしょうか?

この流れは私達を再び縄文の精神性に引き戻そうとする新しい未来を示唆している出来事なのでしょうか?

神のみぞ知るであります。


最後まで読んで頂いて。
ありがとうございます。

いいなと思ったら応援しよう!