超克するものたち
・「洛中洛外図屏風」と「アテネの学堂」
狩野永徳の「洛中洛外図屏風」とラファエロの「アテナイの学堂」を見比べてみた。
この2つの絵を鑑賞してわかることがある。
第一に、アテナイの学堂の方が見慣れていて、屏風の方は見慣れていないということである。
第二に、全体を捉えた視点であるのがアテナイの学堂で、より細かい部分を集積したのが洛中洛外図屏風である。
第一の点においては、アテナイの学堂の方が、チラと見たときに、何を示しているのか分かり易い。ある意味で、私は漫画のような親近感が湧くのだ。どこのページを開いても、たとえ詳細はわからないにしろ、何の場面なのかがわかる。そういう力がこの絵画にはある。反対に、洛中洛外図屏風の方は、美しく、優雅な感じがする。しかし、普段見ている漫画の場面で言うと、見慣れた日常シーンではなく、迫力のあるシーンや、引いて書いてある大迫力のシーンとでも言うべきだろう。そこで、私は現代の日本の表現技法は極めて西欧的な表現に立脚していると考える。
第二に、アテナイの学堂は全体を捉えている。まず全体の様子が目に飛び込んできて、そこから具体的な人物やメタファーの分析に入る。そこには、極めて調和のとれた空間が存在しており、見るものに奥へ到達する深みを与える。一方で、日本の洛中洛外図屏風は、全体をみると同じような絵が繰り返されているように見える。そのため、よく目を凝らしてみることになる。しかし、目をよく凝らしてみると、そこには人物や建物が、この上なくびっしりと、現実以上に繊細に現実を写実しているかのようである。
アテナイの学堂の方が私たちの認識に合うようなデザインがなされているが、洛中洛外図屏風の方も、巨視的な視点を、細部を豊かに描くことで提供している。
どんな美しいものも、やり方の違いはあるにせよ、そこにはいつも超克がある。