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グッド・バイ


 一段と寒くなってきた冬の気配の中、雨が降りはじめた。今までで1番静かで晴れやかな雨だった。
「あの人は」とすでに懐かしい感じで年老いた文士は言う。「心底、本が好きだったらしいですね。やつれていたので心配でしたけど。あなたも、そろそろ思想の中に埋没するのはやめた方が良いのではなくて」
「全部、やってみるつもりでいるんです」
 その若い学士は、顔を照れくさそうにしながら答える。
 全部、やってみるつもりでいるんです。これはあながち嘘ではなかった。
 何かしら、変わってきていたのである。あの人と関わっての半年経って、どこやら、変わった。
 ずいぶん、功利主義ではなくなった、あれほど自明だったアイデンティティという言葉も、どこかへ行くことがある。
 ほとんどのことは、よくわからない。けれど、開かれるものだと、知らせてくれた。   それから、それから......
「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中踏み外しながら、パフェを食べに喫茶店に向かった。

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