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手紙のサインに滲む想い(たぶん)

彼のnoteの文末とサインについて。
前回書いたnote『いってら角野くん』に書きたかったことなんですけど、散らかるので分けて書いてます。

ニューヨークに来てからアジアンフードばっかり食べています。大戸屋の定食が4000円もしますが、頑張って生きていきます。
かてぃん

角野隼斗note『ニューヨークに家を借りてみた

『かてぃん』って書いてある! と、私は狂喜乱舞しました笑

以前何かで(複数の機会があった気がする)
『YouTubeでもクラシック曲を上げるし、角野隼斗とCateenを分ける必要性がもうあまりなくなってきた』というようなことを言っていて、まあでもそこで『だから必要ない』とは結論付けず、むしろ『必要性の再考』をしている感じだったかてぃんさん。

私は個人的に、初めて彼を知ったのがYouTubeのドッキリ動画だったから、という理由で『かてぃんさん』と呼んでいるのですが、かてぃんさん、別の機会には『真面目に傾くとふざけたくなる』のようなニュアンスのことも言っていて、クラシックやってジャズやってポップスもやりたいのと同じ感覚で、自己のキャラクターも複数持っていたい人なんじゃないかなと思っていて、それで敢えてずっと『かてぃんさん』呼びをしてきました。

でも最近の活動を見ていると、本当に明確な区別ってないよなぁ、と思うし、所属バンド『Penthouse』では一応『かてぃん』だけど、メンバーは関係性から(みんな先輩なので)『角野』呼び笑

YouTubeでは、Liveなど自己紹介の際には『かてぃんです』とか『Hello! I'm   Cateen! 』とか言ってるので間違いなく『かてぃん』だけど、最近クラシックやCASIOの広報活動などでの動きが多かったり、作曲クレジットは『角野隼斗』を使うと統一していそうなところなどから、ファンの間では
『そろそろ角野さんって呼ぶべきなのかな』のような気配もちらほら。

私もそうなのかもな、と思ったことも少しありました。
でもなんかしっくりこなくて、結局ずっと『かてぃんさん』のままで。

このタイミングでのサイン『かてぃん』。
『呼び方問題』を目にしていたのか、自身の中で『必要性の再考』が決着したのか、ただ単になんとなくか……それは私にはわからないけれど、noteのサインに『単独かてぃん』を使ったのは今回と、最初に書いた(と思う)『ストリートピアノ文化が長続きするために』だけです。
非公開になってしまった記事がいくつかあるので確実ではないけれど、公開中の記事では『かてぃん(角野 隼斗)』併記が多いです。普通に考えて、これが最適だなと私も思います。
そんな中、特徴的だなと思ったのは『スタインウェイピアノ購入しました (¥12,500,000)』のサイン。

『Hayato Sumino』ってなってます。

この自己主張……尊くないですか!!!!!
ピアノ買ったよ!買っちゃったよ!もう後戻りできないよ!ここから俺は世界のHayato Siminoになる!超がんばる!! って感じじゃないですか!!!!!
(ただの深読み乙で契約書に英文版があるとかの理由かもしれません笑)

そんなこともあって、たぶんですが、かてぃんさんは割と明確にサインを気持ちに応じて使い分けするほうの人なんだなと想像してます。

少し話が逸れますが、先日、一冊の本が出版されました。
私もほんの少しですが執筆に携わらせていただいた『Love Letters~100回継ぐこと~』という小説です。

この小説は、内容が『手紙』のやりとりで構成されているんですけど、宛名の書き方が時々変わるんです。
書籍版では読者の混乱を避けるためか統一されましたが、手紙の最後に添えるサインも、状況や心情にあわせて違う表記になっていました。
100名という大勢のリレー表記だから揺れていたわけではなく、その時その時の、文章にはなっていない想いを察してほしいという、登場人物の本音がそこに込められているのです。

そういう視点から『かてぃん』というサインを見てみます。
今回、かてぃんさんのnoteはピアノを購入した時と同じかそれ以上の環境変化と決意を記しているのですけど、『かてぃん(角野 隼斗)』でもなければ『Hayato Sumino』でもない。
当の本人は2020年のあの頃の心境よりはだいぶゆるい感じなんだなと、思いました。もしくは、そうありたい、という願望でもあるかも。

あるいは、卒業後の進路を『音楽家』と書いてツイートした頃の初心に戻るような意味合いもあったかも。(そのツイートは最初のnoteと同じ頃)これは読みすぎかもしれないけど。

『かてぃん』……。既に世界のHayato Siminoには片足突っ込んでるから、肩に力を入れて、鼻息を荒くして、敢えて自ら『Hayato Simino』と書かなくてもいい。
それから、真面目に傾くとふざけたくなるやつなのか、大戸屋でオチをつけて〆ているのもいい笑
なんかすごい通常運転感がいい。

そんな感じで、サインの『かてぃん』は大戸屋の手前に書かれていた、時間ができるからYouTubeやりたい、にもかかっていると思うし、環境は変えてどんどんチャレンジしていくけど、それによって彼が変わってしまうわけではない、今までもこれからも、ずっと彼は『かてぃん』だよと、なんかそんな風に伝えてくれている気がしてます。

日本とニューヨークは距離があるけど、YouTubeチャンネルのかてぃんならゼロ距離だよと。
接続のディレイだって、今の時代はほんの数秒だし。物理的なことだけじゃなく、『心の距離の近さ』『感覚の親密さ』がすごく嬉しいなって、思いました。

しっかし、カッコつけず遠くならずに高みを目指すというのは、煩悩まみれの私からしたら素晴らしいが過ぎる。
きっと周囲にそういう姿勢の人が多いんだろうな。
私は勝手に謙虚な野心家と呼んでいるのですけど、私もこうありたいな、って思います。尊敬。かっこいい。大好き。


今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!




20230427追記:今回『かてぃん』を取り上げたのは呼び方はこれが正しくて彼もそう望んでいるからサインに書いたんだ!という主張ではありません、念のため。
そこに関してがテーマではないし、敢えてフォーカスするとしても『いままで通りで大丈夫なんだ』という話なので、今まで角野さんとか角野君とか隼斗さんとか呼んでいた人もそのままで、なんでも好きに呼んで良くて、変えたくなったら変えたっていい、そういうくらいの話です。
言うまでもないことだと思って趣旨と違うため書いてませんでしたが一応……。





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