角野隼斗は「ずっと子供でいることを許された大人」

今日、TBS系列のドキュメンタリー番組「バース・デイ」に二回目の登場をする角野隼斗。
そんな彼の素顔の一部を、番組はこんなふうに切り取った。

角野隼斗は忘れ物が多い。これは、少し長くファンをしている者なら有名な話だろう。しかし言わなければ表面上はクールな天才として構成できるのに、このTBS(系列)は、これでもかというほどに「忘れ物」に尺を使い、世間に広めようとする。

別の番組だがこれもTBS(系列。厳密にはMBS。角野のラジオやってる大阪の局)。「情熱大陸」のTV未公開動画だ。

ちなみに、「情熱大陸」放送時の角野隼斗の第一声は「あれ、おれカメラ忘れたな」。本編でも「角野隼斗といえば忘れ物」のスタンスだった。

他にも、レギュラーパーソナリティを務めるラジオの収録が(帰国後の自主待機期間明けすぐに)控えているのに、自分をパリに忘れるという特大忘れ物をかまして公式からいじられるいじられる。(※この乗り遅れはPCR検査の都合だったらしい)

また、別の場面では、角野を世に送り出したPTNA特級(日本最大級のピアノコンクール)公式からもツッコまれている。(これは忘れ物ではないが)

角野にとってTwitterは主にくだらないことをいうツールであるらしいので(Twitterは概ねそんな場所だと私も思う)こういったツッコミ待ちなツイートも多く、ノリのいいファンや公式がそれをいじる場面に出くわすことも多い。親交のある音楽関係者からも度々ツッコまれていて、そういったやりとりを見ることも角野を追う楽しみのひとつになっていると思う。

そんな親交のある音楽家のうち、とりわけ深い愛情表現を欠かさないのがピアニストの清塚信也である。彼は昨年12月に行われた角野のサントリーホールソロ以降、隙あらば自身の枠がある番組で角野を紹介したり、Twitterやインスタグラムで愛を叫んでくれる。

清塚とのやりとりは、たいていノリと勢いで成立していて、見ていて本当に楽しい。ところが、角野がショパンコンクールを三次予選までで終えてメッセージを発信した際に、とても印象深い言葉を残した。

私はこれを見て泣けて泣けて仕方なかった。なんなら今もまた泣いている。
清塚は常々、クラシック音楽を愛し、若いピアニストを愛し、クラシックを、ピアノを、世間に広めようと努力し続けてきた人物である。彼自身もかつてはショパンコンクールに参加したこともあるれっきとしたクラシックピアニストでありながら、お茶の間を活動の場に選んだ人。今でこそ彼のポジションは確立されているが、クラシックに軸を持ちながらもクラシックのそと(というのも語弊あるが)で活動をするというのは、日本のクラシック業界が今よりもっと閉塞的だった時代、とても孤独で不安定な道のりだったと思う。
ご本人のノリの良さは別に無理をしたり、キャラを作ってこうなったわけではないだろうし、向いているのだろう。しかしクラシックの世界だけで活動するピアニストならしない仕事をたくさんしてきた。
変な話、清塚が芸人並におもしろいピアニストとしてポジションが成り立っている事自体が、その孤独な戦いの証でもある。他にいないのだから。

ヴァイオリンの世界にはあの人とかあの人とか、バラエティでお茶の間を賑わすお方がいて、彼らの存在もきっとクラシック音楽にあまり馴染みのない人たちを惹き込むきっかけにはなっていると思う。しかし清塚を含め、こういった音楽家が近年は目立って出てきてはいなかったと思う。

だからこそ清塚の「ありがとう」が沁みた……。清塚は前述の通りショパンコンクールがいかに厳しいものかを知っている。角野ほど知名度があっての参加では結果次第で「やっぱりユーチューバーには無理だった」などと、よく知りもしない世間から嘲笑されるであろうことも、痛いほど知っていたはずだ。

それは角野隼斗自身もよく知っているはずで。以前に出た記事では「クラシックでダメだったからポップスをやっていると思われては困る」というような発言が残されている。(コチラで記事紹介してます)
それはつまり、世間的にはそう思われやすいということだろう。清塚はそんな立ち位置に身を置き、それでもクラシック音楽を広めようと生きてきたからこその、「ありがとう」なのではないかと。

単なる私の深読みで勘違いかもしれないが……。

しかしそんな深読みで勘違いの脳から見ると、冒頭の「忘れ物いじり」も清塚と同じような思いを持つのではないかと思った。
番組制作側には、別にクラシック業界がどうなるかなどは全く関係のないことではあると思う。そこは番組的に面白ければヨシの世界だろう。
けれど、バース・デイや情熱大陸での密着取材や編集は、見る限りでは角野への愛情や敬意をしっかりと感じることができるものになっていたと思う。

不穏な本音を漏らす番組予告も、不穏なまま終わらせる気はまったくないという意図の現れだろう。

番組は、角野を「東大卒の天才ピアニスト」としても目当ての数字はとれるだろう。しかしそれでは世間からは遠い存在のままだ。「忘れ物しがちで仲間にいじられる天然ピアニスト」として世に広めようとするのは、角野を、もっと距離の近い存在として人気を確立してほしいという思いからではないだろうか。
角野を通して、番組や、ひいてはクラシック音楽を、身近に感じて、親しみを持ってもらえるのではないかという、期待が込められているのではないか。

清塚は先日、角野ともうひとりの異端児ピアニストけいちゃんを「弟」にした。

この「弟」というポジションは、「許される」ポジションであると思う。
親からみたら何歳になってもずっと子供であるのと同様に、弟はいくつになっても弟なのである。弟にしたのは清塚だが、角野をいじる業界関係者たちにとって角野は「弟」なのだなと思った。

角野は時にその稀有の才能から業界の宝とも言われる存在だが、崇め奉るような遠い存在ではなく、かわいくていじりたい存在として有り続けることを、関係者たちが選択したのだと思う。
そして関係者たちは、この世話の焼ける弟の成長と、彼が見せる未来を見たくて、たまらないのだと思う。
過去に「大人になりたくない」「ずっと子供(心)でいたい」のようなことを言っていた角野は、この稀有の才能を音楽に全力投入することで、ずっと子供でいることを周囲から許された大人なのだと思った。

あと数時間後に迫った「バース・デイ」、放送がとても楽しみだ。

※放送後追記
番組の内容は密着300日というだけあって超高密度で、演奏あり、本音ありと見応えがありました。自分も夢中になって彼を追いかけてきた日々だったので、その情報量の多さを考えるとよく30分番組(正確には23分ほど)に収めたなと、制作関係者さんのご苦労をお察しします。やー、尺足らんよね笑

個人的には彼のファンではない人が見たときに、「クラシック」「ジャズ」「ポップス」「バンド」「いろんな楽器」「作曲家でもある」「音楽を楽しむ」「模索する姿勢」「時に余裕もなくなる等身大の人間らしさ」などを感じることができるであろう構成に唸りましたね。
短い尺の中に伝えたいことを入れ込むということの勉強にもなりました。

それから、ジャズの聖地やショパンの聖地に臨む憧れやリスクに対する想いは、想像していたことの答え合わせができたような気持ちにもなりました。
(ジャズの聖地に対する気持ちについてなど、ブルーノート公演のレポはコチラ

もちろん、取材中に漏らした本音よりもっと深い奥にある気持ちは彼だけのもので、私には想像もつかないことです。それでも、「ワクワクを共有していきますので」と言って旗をかざす角野隼斗とこれからも共にあろうと思わずにはいられません。提供しますじゃなくて共有なんです。そういうところですよ、愛しいのは。彼自身がまず誰よりもワクワクすることを、これからも。

番組最後の「バンド活動・全国ツアー」が、第3弾の伏線だといいなぁ。
見逃してしまった方、もう一度みたい方はTVerで1週間配信しているのでぜひ!


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