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私も、あと2cmで、「無敵の人」だったから
『無敵の人予備軍』なるものがあるとしたら、私はかつて、その1人だった。
▽「無敵の人」は、別のイキモノ
・5月27日、青葉真司容疑者が逮捕された。
・5月28日、川崎の大量殺傷事件から1年が経った。
36人が亡くなった京都アニメーションスタジオの放火殺人事件。そして、18人の負傷者を出した川崎市登戸通り魔事件。どちらの事件も、犯人の残忍な犯行とその犠牲者の多さが特徴的だ。世の中を震撼させた。
ニュースを見て心を痛めたあの日から、もう、こんなにも月日が経った。ふと、「青葉」「川崎通り魔」で検索してみる。月日が経つと、みんなはこの事件を、どう思っているんだろう?
「怖い」「風化させてはいけない」「ずっと許せない」そんな文字が並ぶ。
私は、なんとも言えない気持ちになった。間違えてはいない。猟奇的な事件は怖い。事件は風化させてはいけない。犯人はずっと許せないし、許されない。
でも、なんだろう。なんだろうな。
▽犯行動機の裏にある無数のファクター
人は、環境に左右される。いや、「環境によって決定される」と言ってもいい。タブラ・ラサだ。
「1人の子供を無敵の人に育て上げる」というのは、至極簡単だ。親がその子供を、殴り、蹴り、心ない言葉を浴びせ、食事を与えず、性行為を強要すれば、いい。学校に来たその子供の上履きを隠せばいい。「どうしてそんなことも出来ないの?」と嘲笑えばいい。過酷な環境にいる人は、異常な量のストレスが溜まる。人はどんどん無敵の人に近づいて行く。
もちろん、過酷な環境からエイヤッと一念発起して、真っ当に生きる人ももちろんいるだろう。でも、自殺する人や、気がおかしくなる人もいる。
そのストレスが、内に向かうのならば、ね。
もし、ストレスが、外に向かったら?
私は専門家ではない。しっかりと論拠を確認したわけでない。
でも、人間に「一般的にはない過剰なストレス」を与えれば、それが『外』に出る可能性は高くなる、気がする。
だから、犯人の過去の経歴を読んで「それでも真っ当に生きてる人の方が多い!」と発言するのは、いささかどうかなと思う。
ストレスって、ストレス量だけではなく、本人の認知の傾向や、能力にもよるんだから。
青葉真司容疑者は、「犠牲者は2人くらいだと思った」と発言していたらしい。建物に火をつけて、2人で済むって、そんなわけないじゃないですか。
一時期、書店にズラっと並んでいた『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ人なら、察しがつくだろう。
もしかしたら、彼は、『火をつけたら、どうなる?』ということが、本当に想像できなかったのかもしれない。
「人を殺そうとした」「残忍な犯行をした」の内訳は、きっと、私たちが勝手にイメージするものより、ずっとずっと絡み合っている。ニュースからは、きっと、ほんの末端しか見えないのだ。
▽私が無敵の人になりかけたのは
大学生の時、1ヶ月くらい、脳が、おかしくなっていた。心が荒んでいた…というよりは、私は本当に頭がイカれていた。
・学校の警備員がタメ口で話しかけてきた時は、「人をバカにしやがって」と思って殴りそうになった。
・街中で人とぶつかった時、「ボッコボコに殴ってやろうか」と舌打ちしていた。
私はストレスが内に向かうタイプだ。でも、この時はもう脳がバグを起こしていて、バリバリ外に電波が出ていた。
本当にギリギリだった。イライライライライライライライラしていて、電車での移動中に立っていることもままならなくて。床に座り込んでいた。席を譲ってくれる人も、心配してくれる人もいない。もっとイライラした。「コイツら全員バカなんだ」「ぬるま湯に浸かってんだろお前ら」「私も、みんなも、死ねばいいのに」と思った。
私は、本当は、助けて欲しかった。
学校の警備員に、タメ口だとしても、優しく接して欲しかったんだ。ぶつかったら、「あっ、すみません」と言って欲しかったし、電車で座り込んでいたら、「大丈夫ですか?」と声を掛けて欲しかったんだ。
だって、私は絶対に敬語を使っていたし、人とぶつかったら必ず「あっ、すみません」と言っていたし、電車で座り込んでいる人がいたら「大丈夫ですか?」と声をかけていたんだから。
自分が謙虚なのか、傲慢なのか、よくわからないまま、はちきれそうな怒りの風船を持ち、地面だけを強く見て、歩いていた。
崖から落ちるまで、あと2cm。そんな気分だった。
でも、ある日、何気ない奇跡が起きた。
食堂のおばちゃんが、「久しぶりねぇ。最近は朝遅いの?」と声をかけてくれた。
…私のこと、覚えてくれてたんだ。
電車で、リクルートスーツのお姉さんが、「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
…心配、してくれる人がいた。
さりげなく、「大丈夫だよ〜」と崖から押し戻されてる気がした。
私は、その時、「人からこんなに優しくしてもらったことは今までなかった」と思ったのだ。
すごくすごく泣けてきて、その純粋で混じり気のない「大丈夫?」が嬉しくて、とても気前よく対応できた。そして、あとで号泣した。今日はケーキを買おう、と思うことができた。
自分と「無敵の人」が、実際どれだけ類似していたのか?わからない。でも、考えてしまう。
もしも、あの人に、食堂のおばちゃんが、「久しぶりねぇ」と声を掛けていたら?リクルートスーツのお姉さんが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれていたら?
それくらいじゃ、変わんなかったかな?でも、そんな小さな「優しくしてもらえた」を、毎日たくさん味わっていたら、どうだろう。変わっていた可能性も、無くは無いんじゃないかと思う。
だから、私は、久しぶりに会う人には「久しぶりねぇ」と声をかけたい。電車で床に座り込む人には「大丈夫ですか?」と声をかけたい。
「怖い」「風化させてはいけない」「ずっと許せない」間違えてはいない。猟奇的な事件は怖い。事件は風化させてはいけない。犯人はずっと許せないし、許されない。
でも、それとは別に、「どうしてそんなことしちゃったの?」「どうすれば良かったのかな?」を、ずっとずっと考えていこうよ。
「どうすれば、犯人はハッピーに生活できていたのか?」を考えて、これ以上こんな悲しい事件が起きないようにしたいよ。
しんどそうな人には声をかけたい。しんどそうに見えない人にも、声をかけたい。皆がそうして繋がっていけばいい。「事件を風化させない」って、ただ単に「忘れない」ってことだけじゃない。
「もう二度とこんな事件が起きないように、自分には何が出来るか、考え続けていく」ってことだと思う。私は。
▽こんなイメージ
橋の上に、私と、「無敵の人」がいる。
橋を降りた先の、片方は、花畑。片方は、針山だ。
私と「無敵の人」は、針山に向かって歩いていた。でも、食堂のおばちゃんが、片方の肩をトントンと叩いた。電車にいた就活生が、片方の顔を覗き込んだ。
叩かれたのは、覗かれたのは…私。それはたまたま。それは運命。私はハッと我に帰る。あれ…私、どこに向かって歩いてんだ。方向、違うじゃん。
「人からこんなに優しくされたことはなかった」そう思って、花畑を目指す。
誰からも何もされなかった「無敵の人」は、そのまま、針山に向かって歩いていく。
▽ラベリングは、わかりやすいけど
「残酷」「猟奇的」「異常者」というラベリングは、わかりやすい。それで全てが片付く。人は自分が理解できるものに安心を覚える。
でも、私は、知らないことや、わからないことに対して、ラベリングをしたくない。
できるなら、「あんまり知らない」とか、「なんとなくしかわからない」というラベルを貼りたい。
無敵の人になりかけたり、精神科病院に入院した身としていつも感じているのは、「正常と異常の間の橋は、意外と短い」ということだ。
「無敵の人」は、救いようのないサイコパスじゃない。もしかしたら、何かしらの障害や疾患が影響しているのかもしれない。話してみたら、案外普通の人かもしれない。やっぱりヤバいやつだ!と思うかもしれないけど、ヤバいやつだって、すき家の牛丼を食べたことがあるし、アメトークを観て笑ったことがある。そう考えたい。
その人に、こんなモノがあれば、こんなヒトがいれば、事件なんか起きなかったんじゃないだろうか?それが何か、考え続けたい。犯人という1人の人間に残忍さを押し付けたなら、全てが片付いたように思えるだろう。でも、それは臭いモノに蓋をしているだけで、事件の抑制には繋がらない。
どうしたら、出来るだけ多くの人がハッピーに生活できるか?その視点を持ち続けたい。ポジティブに事件を抑止していく力の1つに、私はなりたい。
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