「謎解き」が広がっていない世界にはもう「謎解き」は作られないのか

小謎とか大好きです。

以前の謎解き公演では、物語を進めるツールとして小謎が存在していました。もちろん今でも存在している公演はありますが、以前ほど重要視されていない気がします。小謎のこの部分をもう一度使って謎が解けるとか、この条件はストーリー上でも効いてくるから答えが変わるとかありましたよね。

ではなぜそうなってきているのか。それは「物語の世界に、謎解きが存在しないから」ではないかと考えています。物語を進めていくツールであった小謎は、時にその世界観にそぐわないことがあったのではないでしょうか。そういったものは「物語体験としての謎解き公演」では消えていくのはしょうがないのかもしれません。あるいは、現実的に「のこしたいものを暗号・謎で隠す」というのはどうなんだろう、とも考えられます。別の話題かもしれませんが、ダイイングメッセージが推理小説の中で出てきますが、犯人の名前がわかるようなものを残せば犯人に消されてしまいますし、謎を解かなければならないほどに複雑な謎を作るぐらいなら助けを求めるのではないか。

謎解きは「娯楽」として広まりつつはありますが、多くの人々に広がる「文化」にはまだなっていない。だからこそ私たちの生きている現実世界は「謎がない」世界なのです。娯楽が文化として十分に育ちつつある皆様の世界には例えば「あんたがた」などのような現実世界にある謎解きがある。でも、普通に生きている私たちの世界には、まだ十分といえるほどの広がりがなく、「謎がない」世界なのです。
これは物語の世界でも同様です。近年の「謎解きを学生時代に経験してきた世代」が作る謎解き公演は、前述の「物語体験型の謎解き公演」とは逆に上質の小謎が多く含まれ、それを解くことで物語が進んでいきます。これは彼らが「謎がある世界」に生きているからなのでしょう。謎があっても違和感ではないし、むしろ謎があって当然なのでしょう。

この辺りは「謎は物語を進行するツール」と考えるか「謎って当たり前にある音楽、芸術のようなもの」と考えるかかもしれません。私の考えとしては「どっちでもええ、たのしかったらええ」です。緻密に謎を積み重ねたような謎解きも好きですし、ストーリーに没入するし行動を起こすことで進んでいく物語体験も好きです。SCRAPさんはわりと両面の要素を持っているイメージです。それに続いてできたような謎解き制作会社・団体は前者のいわゆる「謎解き」を主にした感じに思っています。

皆さんの意見や考えも聞いてみたいですね。

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