星野源、健やかであれ(ご結婚おめでとうございます)
大好きな星野源さんが結婚されることになり、めちゃくちゃに嬉しい!!
わーいわーい源さんが結婚だ!!!
ガッキー!ガッキー!ガッキー!!!
と、まぁひとしきり大騒ぎし、その後ずっと夢見心地でいる状態です。
この喜び、この感情って、あれに似てるなって。
高校生の時、ずっと好きだった人に告白して、付き合うことになった後の、あの感情。
とにかく嬉しくて嬉しくて、
「えーーーまじで?いいの?付き合うの?」
という新鮮な驚きが波のようにやってきては、日常の合間合間で発作的に「えーーー」とため息をつく。
照れくささと嬉しさを噛み締める、あの感じ。
…あれ?
なんで私、星野源と同期しちゃってるんだろう?
源さんの作品に、自分の中の自分でも気づいていない感情を掬われ続けること、数年。
しまいには、星野源は自分だと思い始めちゃっていたんでしょうか?
目を覚ませよ!笑
「えーーー、私、結婚するんだ、、、(ガッキーと)」
てのは冗談にしても、まぁ自分の事のように嬉しいとはこの事で、とにかく嬉しくて嬉しくて、そんな数日間だったんですが。
数日経って、気付いたんです。
「あれ?なんか、寂しいかも?」
これは所謂ロス?…ではないな。
うん、これはロスではないと思います。
何も無くなってないもの。
何も無くなった気がしないもの。
これはね、きっと、足りないんですよ。
なんか…祝い足りない。
もっともっと祝いたい。
もっともっと喜びを爆発させたい。
だけど、星野源は大スターであり、私自身でもなければ、私の家族でも、友人ですらない。
だから、お祝いの気持ちを伝えてお礼を返してもらって、満足することもできないわけです。
ていうか、そんなの求めてないんですが。
じゃあなんで、足りないんだろう?
それはたぶん、源さんの結婚、源さんの幸せ、それを実感出来てないからではないかと。
要するに私の想像力が足りないのかな?
だから足りないと感じてしまうのではないかと。
そしたらなんかね、怖くなりました。
こういう「足りなさ=飢え」が、推しをマイクに囲ませてしまうのではないかと。なんでもいいから情報が欲しいという「有象無象」を造っていくのではないかと。
いやいや、源さんが記者に囲まれてる姿なんて見たくない。
源さんまじステイホーム。
(ラジオもリモートでいいのでは?)
常々、私の願い(おそらく多くの星野源ファンの願い)は、たった一つだったはずなんです。
『星野源、健やかであれ!(心身ともに)』
発表があったすぐは喜びの声ばかりだったのに、このたった数日で、少しずつ見たくない情報が出てきたなと感じています。特に、本人が出てこないと周りにマイクが向くのはなんなの?嫌悪感しかありません。
なのに、そのマイクを向かせてしまっているのが自分かもしれないの?こわ!
冷静になれば、何を飢えることがあるのか?
私の周りは、素敵な大切なたくさんの星野源作品に囲まれてるではないですか!
ということで、とりあえず私は「ライブツアーPOP VIRUS in 東京ドーム」の映像ディスクを視聴しました。"Present"がいつもより沁みて泣けたし、"Hello Song"がいつもより爆発的に胸に来た。
ピアノで練習していた"Family Song"も、練習を再開しました。
練習しながら、この曲が発売された辺り、2017年頃の源さんを思い出したりして。
ライブツアーContinuesで全国をまわりながら、同時に新曲(Family Song)を制作していた当時、忙しすぎてなのか本当に辛かったそうなんですが、それはラジオのトークを聴いていたりインタビューを読んでいたりしても、やはりちょっとずつ伝わってきていて、リスナーとしてもちょっと辛い気持ちになっていたなぁとか。
だけど、発表された新曲"Family Song"はやっぱり素晴らしくて、星野源はすごいなぁと思ったなぁとか。
何ヶ月も弾いていないので、ほぼ、弾けなくなっていたんですが、たくさんたくさん弾いていると、胸の中が"Family Song"の歌詞で、いっぱいになりました。
"ただ幸せが 一日でも多く そばにありますように"
あぁ、嬉しいなぁ。
星野源が結婚した。
源さんが結婚したなぁ。
私の実感なんてどうでもいいことです。
私の想像力の欠如なんてどうでもいいことですよ。
願うことはただひとつ。
星野源、健やかであれ。