上海の老舗音楽カフェ【温故知新】
虹橋路の老房子の奥の奥の一角に、JAZZバーのようなしっとり落ち着いた雰囲気のカフェ「温故知新」があった。メニューは洋食と中華を中心に、夜はバーとしておじさまから太太さんまで幅広く愛されていた。
今回は、上海虹橋の音楽カフェ「温故知新」についてのお話です。
音楽が足りなかった時代
海外生活で恋しくなるのが日本の音楽。今ではネットでほとんどのコンテンツが見聞きできる時代になったが、当時は日本からCDを持ち込むか、露店やリヤカーで海賊版CDを購入していた。価格は概ね1枚10元。ダンボールにぎっしり詰め込まれたCDやDVD、VCDを1枚ずつチェックした思い出をお持ちの方も多いかと思われる。
余談だが、店内の隠し扉の向こう側は、成人コーナーとなっている場合が多い。エロティカルなVCDやDVDがダンボールにむっちむちに詰め込まれている。リヤカーの場合は機動性に優れているためか堂々と売られている。こちらも価格は1枚10元。音楽にもエロティカルにも飢えていた時代なのだ。
そんな時代の上海で、音楽好きが集まるカフェとして有名だったのが「温故知新」である。定期的に駐在員ライブが開催される事でも有名で、ギターと喉を鳴らしに多くの駐在員シンガーが集まっていた。また、当時は生の歌声を聴ける場が少なく、癒しを求める観客でいつも店内は賑わっていた。
ライブといってもバンド演奏というよりは、ソロでの弾き語りやJAZZなど、まさに大人の音楽であった。2001年当時、駐在員のメインは40代以上がほとんどだったので、おのずとダンディーな曲目が選択される。
駐在員ライブというちょっと大人の世界
2001年末。駐在員ライブを見に行こうと、会社の先輩オオハラさんとその友人のイトウさんに、まだ店舗が小さかった頃の温故知新に連れていただいた。ぼんやりした記憶になりつつあるが、約20年経った今でもとても良い思い出だ。
50平米ぐらいのスペースに椅子とテーブルが並べられ、観客20人ほどで店内はもういっぱい。そんな中で弾き語られる駐在員ライブ。中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水など、フォークソング中心のゆったり落ち着いたライブだった。フォークソングに不慣れな24歳の私にとって、初めて耳にする西岡恭蔵の『プカプカ』は、日本の懐かしい心地良さが感じられる不思議な曲であった。
簡単な挨拶と曲目紹介、演奏、拍手、交代という流れが心地よいリズムで繰り返され、ジャパニーズミュージックの飢えを癒すため、暖かな光の中みんなしっとりと聞き入っていた。
オオハラさんとイトウさん
「オオハラ君、俺もギター得意なんだ」
「イトウ君、マジか」
先輩方が楽しそうだ。
「ちょっと飛び入りで参加してみようかなオオハラ君」
「やっぱりみんな真剣だからやめておいたほうがいいよイトウ君」
「オオハラ君、俺のギターと歌のレベルはあんなものじゃないよ」
確かに以前、クラブ栄でモーニング娘。の『ラブ・レボリューション』を、ハイクオリティで歌っていたイトウさん。しかもフルコーラス振り付きで。
「ちゃんとやってねイトウ君」
「任せてオオハラ君」
お店の方と交渉するイトウさん。
ちゃんとリハーサルとかあってですね、と困り顔のスタッフ。
すぐ終わりますから顔のイトウさん。
苦笑いのスタッフ。
しばらくして
「本日は飛び入りでの参加者がいらっしゃいます」
と、皆さんに紹介していただいてイトウさん登場。
ラブ・レボリューションを踊る方に弾き語りが出来るのか。
そんな心配を吹き飛ばすようなギターさばき。
イトウさんのギターテクニックは本当に見事だった。
本当に見事だったが
曲目は
広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』
「イトウ君、マジか」
オオハラ先輩の目が激しく無音で踊っている。
全員が別の意味で静かに聴き入っている。
さっきまでフォークソングでしっとりしていた空間だったが
一瞬にして空気が乾燥した。
ひとしきり気持ち良く歌い終わったイトウさん。
小雨のような拍手。
こっちに戻って来るイトウさん。
こっちを見て欲しくない私とオオハラさん。
3分後にはうつむきながら、
誰にも見つからないよう退店していた。
温故知新へは罪悪感で
それから11年間ほど足を向けられなかった。
その後、温故知新は一度の移転を経て2017年1月に閉店。
虹橋の老房子をベースにした音楽カフェに、
MajiでKoiした17年間であった。
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