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21世紀から20年の始まり

辞令
2001年9月○○日付で上海××有限公司へ出向することを命ずる

これを目にした直後に耳にした言葉が「何も言わずにハンコ捺して」である。無駄と人情を省くことで、滞りなく話を済ませたい部長の意向が、私のハートに突き刺さる。以心伝心を実感した24歳の夏。

「半年間だけだから、がんばってね」
 部長もたまには会いに来てくださいよ。
「えー、やだー、中国って冷たいビールが無いから絶対やだー」

部長はとにかくもう話を終えたいようだ。


便利な存在だったはずだった

当時私は、北陸にある印刷会社で、通販カタログの制作チームに在籍しており、何でも比較的ひょいひょいとこなす便利な存在として扱われていた。そう、上海に飛ばせるぐらい便利に成長したのだ。

1冊32ページを完成させるまでに初校・二校・三校・念校の4ステップがあり、常に4週分が同時進行している状態。実質毎週128ページの膨大な制作業務を行う。

その実務を中国側で行い、日本側では修正と管理に集中。製造コストと負担軽減の同時実現を目指した、「技術指導員」という非常に重要なポストに抜擢されたという流れだ。便利さが原因で不便なことになってしまった。

異国での外国人相手の技術指導に不安はあるものの、慢性的な残業地獄から半年間は抜け出せるので、少しだけ心を踊らせていたのも事実。上司や先輩の目が届かない、やることさえやれば自分の思い通り、グハハハハ。もはや小さなジャギである。


想像していた異国は異世界だった

2001年9月13日、関西国際空港発上海虹橋空港行き中国東方航空便。当時はまだ機内後部から5列ほどに喫煙席が設けられており、喫煙者にとってはありがたい空の旅となっていたが、仕切り板などは無くダイレクトに機内を漂う煙。分煙しない喫煙席。超斬新。

約2時間のフライトを終え初めて降り立った中国、虹橋空港から第一歩を踏み出した印象は「黄色い昭和」。とにかく黄色い、黄土色というかセピア調というか、空も人も空気も建物も街路樹も妙に色あせており、ニョキッと生えた椰子の木で更に時空感が狂いそうになる。そこに変な漢字、そう、簡体字が目に飛び込み、異国を超えて異世界に飛んで来たような感覚。

ジャッキー・チェンやブルース・リー、高層ビルとネオン看板、飲茶に本場の拉麺。その時ようやく気付いたのだが、私が子供の頃から好きだった中華のイメージとは、香港だったのだ。情報元は全てゴールデン洋画劇場。


夢だったチューザイドリームはただの夢だった

当時は私の中で「駐在員」という言葉がまだ定着しておらず、半年間の長期出張・日本からの赴任・技術指導員という、曖昧な位置付けで認識していた。位置付けに特にこだわりはなかったが、むしろ聞き捨てならないのが待遇。駐在員としての待遇である。

・物価が安いのでお金が貯まる
・駐在手当が出るのでお金が貯まる
・帰任時には新車が買えるぐらいお金が貯まる
・とにかくお金が貯まってしかたがない

そんなチューザイドリームを耳にするほど、曖昧な位置付けからの意識改革が始まり、本社人事には顔をテカテカさせながら駐在員アピールしてみたり、新生活の支度で貧乏アピールしてみたり。

その結果
日本本社勤務時の給与手取りは17.5万円。アピールの甲斐なく駐在手当や支度金が支給されないどころか、通勤手当が無くなり給与手取りは16.5万円にダウン。

翌年、愛車を手放しました。

こうして21世紀初頭から上海20年の旅が始まりました。

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