私たちも日常で演技をしているのかもしれない「偶然と想像」
0才と3才の息子二人を子育て中の私たちは、妻が誕生日プレゼントとして祖父母に貰った子ども二人を見てもらう券を使って、妻と半年ぶりに映画を観に行ってきました。
映画選び係の私が今回選んだのは『偶然と想像』。
私の好きなラジオパーソナリティーの二人が取り上げていて決めました。内容部分は何も聞かずに知らずに。
自分で選んだ映画を観ている最中に妻はこの映画で大丈夫かな?と少し心配に思ってしまうことは少なくないのですが、今回は少しではなく多分に思ってしまう内容でした。
しかしそれは今回も杞憂に終わり、鑑賞後の感想はとても良かったと聞いて安心しました。
そして、なぜだか私はとても嬉しい気持ちになりました。
変わり者と呼ばれてしまいそうな愛すべき人たち。
この映画に出てくる人たちって実際にもいそうだなー、いるよなー。
そう感じられる人がたくさんいる社会だと良いと思います。
行動原理が分からないからという理由で(本気で)恐れられてしまったり、
誤解をされてしまったり、
自分の経験のみで自分が作ったカテゴリーに分けてしまったり、
理解したと思ってしまったり、
自分のことをこういう人間だと定めてしまったり。
気を付けていないと、気づかないうちに人が人をカテゴリーに分類をして理解をしたつもり、分かったつもりになってしまいます。自分が理解できない範囲の人のことまでも、。
自分の気持ちを分からないと言えたり、何かを聞かれたときの語尾が「そうかもしれませんね」と断定を避けて話す人を信頼します。
特に教授の考え方や言葉に共感をしました。(妻からは何かが似ていると言われました。あまり嬉しくはありませんでしたが笑)
しかし、自分の気持ちを分からないと言える人であっても状況に応じて演技をすることがあるということが第一話で描かれていました。
そして私も日常で演技をしているとも言えるのではないかと思えてきました。
普段本音を言えていない人が本音を言える相手との距離の遠さ
私たちはかなり本音を言い合う夫婦だということを自覚しています。それは周りの(結構いろいろなタイプの)十数組の他の夫婦の会話の内容や量、夫婦の距離感情報などから相対的に自然に見えてきたことです。
これによって問題(喧嘩)に繋がることもありますが、どちらかというと自分では良いことだと思っています。
妻の友人たちは、私のことを理解していると思っている人たちが多い印象です。カテゴライズされて理解されているように感じますが、その分類の仕方は雑なのではないか?と感じることもあります。
そういうことも全て妻には話すのですが、妻には救われています。
自分が自分らしいと思える自分でいられる場所が家庭であることをとても嬉しく思います。私は家庭で演技はしていないです。
偶然出会って、
恋愛をして、
振られて別れて、
そして数年後に再び付き合うという過程を踏むことのないまま私は成功するかどうか分からないプロポーズをして、
それを受け入れてもらって結婚をしました。
どこまでが偶然なのでしょう。
ただ、私は妻と出会わなかった想像はしたことがありませんでした。
映画を鑑賞後にラーメンを食べたあと歩きながら妻と一緒に想像してみましたが、真っ先に思ったことは息子二人が誕生していないということでした。
そして出会っていないので妻も横にはいないということ。
それ以上は想像できませんでした。
久しぶりの家系ラーメンでお腹いっぱいになりすぎた私たちは、「ごようじ」にぼくもいっしょにいきたかったなーと思いながら帰りを待っているであろう三才の息子と、お腹を空かせて待っているであろう0才の息子が待つ妻の実家へと向かいました。
より多くの人が生きやすい世の中になりますように。