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自分を犠牲にした活動は、他人をも追い詰める。
自分を犠牲にした活動は、他人をも追い詰める。
「自分はこれだけ我慢した」=「してやった」
にも関わらず、自己犠牲に見合った感謝や見返りが無いと相手を憎む気持ちが生まれる。
例1:行きたくもないデートに女性に合わせて行った場合
「コレも経験だ」と普段行かないところに飛び込んで行くのはポジティブだが、自分が行きたくもないところに自分を殺して行ってしまった場合。
相手もまた時間を割いてメイクしてオシャレして来てくれる側面もあるので、自己犠牲のために楽しそうな顔が出来なかった場合、相手にも不快感を与えてトラブルになる。
例2:親が喜びそうな自分になってしまった場合
親はいずれ死ぬ。親が死んだ後で残っているのは自分の人生を生きなかった抜け殻。
親は子の人生に責任を取らない。自分の人生の責任者は自分自身であるし、時に親というのはそれを教えずに自分が子の人生の責任者になったかのような振る舞いをする。
しかし、当事者しか「自分の人生はこれで良かったか」の判断はできない。
令和を生きている者、そこで手を動かしている者だからこそ分かる感覚、見える景色がある。決断はその景色や情報を基に行う必要がある。
それは昭和を生きた者にはできない。
昭和の常識で、30年ローンで家なんて購入していると、令和を生きることなんてできない。追い詰められた後で親を呪っても手遅れ。
親を呪わなくて済む様に、親のために親の意見は無視することも大事。
親の意見を無視して稼いだお金をたまに送ってやれば親の喜ぶ顔は見れる。
自分の為は親の為だ。
まとめ「自分」は誤魔化せない
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自分を犠牲にしたことを自業自得と割り切れるなら良いが、深いところで自分の本音は誤魔化せない。
「お金」「キレイな女性との大人な関係」「SNSに載せたらキラキラする日常」それらが揃っていても、自分の真ん中が埋まっていない状態になると、人は病んでしまう。
自分が欲しかったものから目を背けたことに人生の終盤で気づいた者は悲惨である。お金もキレイで若い女性が周りにいるのに1人で精神的に立てないところまで拗らせている者もいる。
お金を稼ぐことも大事、異性にモテることも大事、そして、自分が自分自身にモテることも大事。
自己犠牲の一切をやめることでみえるものがあるかもしれない。与えられるものがあるかも知れない。
利他の心は自己犠牲をやめた先にある気がする。
ありがとうございました。
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