見出し画像

見送ってから100日経って思うこと

母の魂が、肉体から離れて、100日が経ちました。

今日はお家でお線香を炊いて偲びました。
不思議なことに、お線香の煙は最初は一本の煙だったんですけど、お経を唱えて、じっと見てたら、煙が2つに分かれて

な、な、なんと!
子宮の形になるんです!!!
何度も何度も。
エアコンもつけていないし、窓も開けてないし、そんな芸術的なことができるような鼻息でもないのに。

どんなメッセージなのかしら?。。。

香炉でお線香を炊きました



いないのよね〜、どこにも。

街で、母と似たような風貌の高齢のご婦人を見かけると、あ〜、(母は)もうどこにもいないんだ、って、この頃になってしみじみと、子供の頃からの様々なシーンがスライドショーとなって思い出が湧いてきます。

肉体はなくなっても、魂は居る。
そーは言っても、現実的には現世では物質としての母は、たっくさんのキレイなお花に囲まれた状態で火葬、拾骨して壺に収め、いなくなったことは確かに見届けてるわけですし。

あるとき突然、手品みたいに、
「わぁ〜!」って出てくるんじゃないかとか

でもやっぱり、いないんだな〜。。。



彼女は、長く生きて、骨のトラブルは多々経験しましたけど、大きな病気もせず、周りの人たちにとても親切で、人々を楽しませて、老衰という形で静かに人生を閉じていきました。

彼女の残したエンディングノートを読んだら、青春時代の思い出の欄に
「戦争が始まったから楽しい思い出はなし」
と記されていました。

そっかぁ、子供の頃に戦争を体験してるんだ。
考えてみたら、親のこと、あまり詳しくは知らない。
親って、子供に言いたくない、知られたくないこと、たくさんあるんだろうな〜。
私だって、ぼっちゃまんには知らせないでおこう、ってこと、ありますもの。

それから、亡くなったことを知らせて欲しい人たちの欄、数名書かれていますが、知らせる人は、誰もいない。
みんな先に逝ってしまって。

母のエンディングノート

彼女がまだ10代の頃に、家と家のつながりで顔も知らない人のところに嫁ぎ(嫁がされ)、子供ができなかったという理由で実家に戻り。。。
一人で身を立てていけるよう、手に職をつけました。

そして彼女は、70歳まで車の運転をしていました。しかも5速のギアチェンジカーを🚗
70歳を過ぎても、リュックを背負って、一人で新幹線に乗って我が家に遊びにきていました。



告別式に行くにあたり、母が作ってくれた喪服を
「一回着たな 2回目か」
って思いながら着物ハンガーに広げ、小物やお草履、髪を結う道具、などを用意。
全部合わせると結構なボリュームになる。
一個忘れたら着れない不都合な(不恰好)ことになるのが和服。

あ、土砂降りかぁ、と黒いスーツに変更。
やっぱり、ジャケットだけ持っていこう。

だんだん減らしていき。。。
着物を着たり髪を整えることのエネルギーと時間を考えたら、少しでも、母と一緒に過ごす最期の時を大切にしたいので、着物もスーツも、ジャケットもやめて、結局、告別式には、着慣れた部屋着のまま向かいました。

参列くださる方々に対して無作法かな?と一瞬よぎりましたが、まだコートを着る季節だったので、黒いコートを着てフロントジッパーを閉めればれば黒づくめになるからいっか、と。

若い頃からづっと、
「結婚する前に親のために喪服を着るなんてことがないように!」
と、何度も言われていました。
が、結局、喪服のしつけを外して初めて袖に手を通したのは父の葬儀でした。
当時、独身でしたので、申し訳なさでいっぱいでした。


などなど、いろいろ思い出されますが、
きっと彼女は、この人生で、楽しいこと・辛いこと、たくさんのことを体験し、幸せな人生だったことでしょう💖✝️

時が経っていろいろ走馬灯の如く思い出しますが、たった一つ思うことは、
私に、命のリレーのバトンを渡してくれたこと、只々深く感謝です💕


回顧録を読んでくださり、ありがとうございます😊



ご興味を寄せて頂き、ありがとうございます^^ 運氣、開運に関して記事を書いています。 よろしければ、サポートをお願いします!頂きましたサポートはクリエイターとしての運営活動費として、ありがたく使わせて頂きます。