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対話不可能な人とどこまで、何を話すのか

今日は個人的に考えていることを抽象的に垂れ流す回です。

中国の人と話していると、対話の不可能性を感じることがあります。

たとえば政治面については、中国には日本その他の先進国とは大きく異なる制度が敷かれており、また大きく異なる現象が起きますが、そのことについては多くの中国人とは議論にすらなりません。

どうしてもそれを「異常なこと」として捉えてしまい、その前提から論じてしまうこちら側にも問題はあるのでしょうが、それ以前に自国を相対化することすら許さない頑なさに驚かされることもあります。

なんら批判的意図を持たない指摘であっても「でも日本だって悪いところがある」と切り返されて、ポカンとしたりします。こうなると、もう話してもしょうがないしこの話はしないでおこう、という結論にたどり着かざるを得なくなります。

また、政治的な文脈がなくとも、あまりの話の通じなさに辟易し、中国人との対話をやめてしまった経験はたくさんあります。

コミュニケーションのベースに「交渉」がある中国の人々ですが、その「交渉」のゴールは妥協点を見出すことではなく、どのようにして100%に近い形で自分の意見を押し通すかです。だから(権力の傾斜がない限りは)話し合いはいつまで経っても前に進まず、平行線をたどるばかりです。

そうした意見のぶつけ合いは、相手の気持ちや事情を汲み取り、配慮することを教えられてきた日本人にとっては苦痛をともなう場合もあります。仕事などではタフな交渉をしなければならない場面が日本人でもあるとは思いますが、中国のそれはまた質が違います。

あまりに面倒な「交渉」としての対話に疲れてしまい、「もう話をしたくない」とそれを放棄してしまった、つまり泣き寝入りをしたり、相手の言っていることを受け流したうえで関わりを絶ってしまった経験は、やはりあります。

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こういう経験をするたび、「話が通じない人」とどこまで交流し、何を話すのが正解なんだろう、と考えます。

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