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どこまでを国の違いに託して語るのか

我が夫婦は国際結婚です。僕は異国である中国に住んでいます。それは特別なことかもしれないし、特別なことではないかもしれない、不思議なことです。

今日は、国際結婚夫婦としてそれなりの時間を過ごしてきた人間の、または中国にそれなり年数を暮らしてきた人間の考えていることを、書いてみたいと思います。

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冒頭に示したnoteでは、「合わないと思う部分を「まあ、育ってきた国が違うしな」という理由に託してしまえるのは、ある意味では気楽だったりします」と書きました。それはそれで有効な考え方で、いまでもこれによって救われているところがあります。

いっぽうで、それだけでは片付かない問題もあるというか、こういうマインドだからこそ生まれてくる問題もあるな、と思ったのです。

それは、「この人は中国人だ」ということを考え続けている限り、もしくは過度に意識し続けている限り、自分は本当の意味でこの人のことを幸せには出来ないんじゃないだろうか、あるいは絶対に埋められない距離がそこに出てきてしまうんじゃないか、ということです。

〇〇人であるということは、その人の何かを決定づける大事な要素です。だから無視するわけにはいきません。そこから決められる行動特性だったり、習慣の違いだったりを理解することは、大事なことです。

しかし、それを言い訳に本質的な問題の解決に向かわないことや、いつまでもその問題を「国の違い」に押し込めてしまうことにも、やはり歪みは生まれます。そこにあるしこりや溝を、いつまでも見続けていることは、二人の気持ちに変化を起こします。「埋まらない、縮まらない距離があるなら、もうお互いがここにいること自体無意味なんじゃないか?」と。

本来はいろんな夫婦に普遍的な問題を、国の違いに託して見てみないフリをするのは、あまりよくないよな、というのが最近の考え方です。どこかで、きっちりと嫁という人間自身に向き合う比率を、もっと増やしていかなければならない。少なくとも、国の違いによって起こる摩擦と、そうではないもの——国の違いなど関係なく向き合わなければならない問題を切り分けたうえで向き合う必要がある。

「中国人」ではなく、ちゃんと一人の人間として相手を尊重していかなければならない。

最近はそんなことを考えています。

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きっとこの考えは、嫁以外にも中国の人々と関わるときに、忘れてはいけないことなのではないか、とも最近は思います。

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