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夢を持った。意味を持った。忘れられたくないと願った。
幼い頃、私はアイドルになりたかった。
テレビに出たりライブをしたり、皆に注目されながら歌ったり踊ったりしたかった。画面越しの煌びやかな世界に、この上なく憧れた。
でも、両親にそれを話したら馬鹿にされた。冗談で言ったと思って笑われた後、私が本気と知ると怒られた。「そんなんで食っていける訳が無い」「安定していない」「成功するのは一握り」。怒鳴られこそしなかったが、全否定。「どうやったらテレビに出られるの?」と聞くことすらも許されない。
小学一年生、未来に夢見る子供だった当時の私は、初めての夢を完膚無きまでに叩きのめされた。
次に持った夢は、タレントだった。歌ったり踊ったりが駄目なのなら、バラエティ番組でトークをしていたい。馬鹿な小学生女子は、まっすぐにそう思ったのである。
だが、芸能関係を志望していると、両親に知られてはいけない。当時小学二年生、本能でそれを把握済み。
だから、夢は自分の胸の奥にしまっておくことにした。元より両親に夢の話をされることは無かったから、知能指数が著しく低くても、特に問題は無かった。
しかし、どんな夢も目標も、口に出すことで自分を鼓舞することにつながる。結局、タレントに成りたいという夢は、いつの間にか風化していた。
それからというもの、私は夢を持たなくなった。隠しているのではなく、本当に何も無いのである。
どうせ認めて貰えないから。どうせ許して貰えないから。どうせ成れないから。小学校高学年になることには、将来の夢という言葉自体が嫌いになっていた。新学期の自己紹介で毎回「夢はありません」と答えていたが、それを両親に咎められたこともあった。「潰したのはそっちの癖に」と思いながらも、毎回「だって無いんだもん」とだけ返した。職業体験等でどうしても必要な時は、その都度周りに合わせて微塵も興味無い職を口にしていた。
両親も「お花屋さん」とか「看護師さん」とか「警察官」とか、そう言った子供らしくも安定している職を挙げて欲しかったのだと、今なら判る。だが、当時の私は有名になりたかった。そうでなければ、夢なんか持つ必要はないと考えていた。それくらい、「有名人」への憧れは大きなものだった。
……いや、それは今も変わらない。大学四年生になった今も、自分の名を広めたいという気持ちは変わらない。それは幼少期に抑圧された反動なのか、単に私という人間の本質なのか、よく分からない。
中学に上がり、高校に上がり、世界も人脈も広がった。将来の夢は志望進路という肩書きに代わり、小学校時代よりも一層重視されるようになった。
私は、それでもなお将来の夢も、進路の希望も、何もなかった。中高一貫校だったので考える時間は多かった筈だが、本当に何も無かった。憧れる未来を見つけても、それは泡沫の如くぱちんとはじけた。食っていけない、成れるわけない、家族の理解を得られる訳が無いと、無理矢理諦めるようにしていた。ある種の洗脳だった。
私は、中学に入って以降成績がとても悪かった。中学一年の時点で二人の教師との折り合いが悪く、その教師の担当科目ごと怖くなり、毎日憂鬱と戦っていた。その教師がいる空間そのものが無理になっていた。誰にも相談出来なかった。誰に話しても判って貰えなかった。両親、特に父親は甘えと言った。欠席すらも許されなかった。家も学校も毎日怖くて、余計に成績は悪化した。一層怒られた。さらに折り合いは悪くなった。病んでいると言われたことはあるが、誰かが助けてくれることもなかった。
そんな事情があるから、自分のやりたいことを口にするのは、ほぼ不可能だった。習い事をしたくても、友達と出かけたくても、「そんな場合じゃない」と一蹴される。スマホすら高二の後半まで持たせて貰えなかったから、自力で何かに挑戦することも容易では無かった。
故に、両親にしたいことを応援して貰えたり、家族の理解を得られる同級生たちが、酷く恨めしかったし妬ましかった。中学で出会った小説執筆、二次創作という趣味も、両親には内緒で細々とやっているのみだった。
あこがれに蓋をし、夢を自ら捨てるように努めるだけで、中高の六年間は幕を閉じた。
私が再び夢を持つようになったのは、大学二年のある出来事が起因している。端的に言うと、嫉妬だった。
その頃はちょうどコロナが流行し始めていて、春休みが終わって二年生になっても、オンライン授業の為にずっと自宅に居た。大学生になったのもあって親の干渉も減り、教師との距離も遠くなり、興味のあることを専攻にしたので成績に苦労することもなくなっていた。趣味の小説執筆(二次創作)も続けていて、今までからは考えられない程時間が取れるのが幸せだった。貰える反応も、0だった頃に比べれば増えてきていて(現在も居るそのジャンルが、当時は旬だったというのもある)、何より書いているのが楽しかったから、ずっと書き続けていた。
そんな折だった。ひょんなことから、最も知りたくなかった事実を知る羽目になった。
同じ界隈で、同じ立場で活動していると思っていた相互様が、別名義で商業デビュー済みの作家だったのである。
自分で言うのもなんだが、私は世間で言う嫉妬深い部類に入ると思う。それは恐らく、幼い頃から本当にやりたいことを抑圧されてきたからだろう。堂々とできる人達が、認められ応援されている人達が、心の底から羨ましくて、眩しくて。悔しくて恨めしくて妬ましかった。何かの拍子に失敗してくれないかと、全て瓦解してはくれないかという気持ちは消えない。
そんな私が、突然上記の事実を知らされて、平静を保っていられる筈が無かった。増してや相手は年下。デビューした時期は、私が夢を捨て、日々の憂鬱に蹲っていたのと同じ歳の頃。聞けば、両親が夢への後押しをしてくれたと言うではないか。界隈内で有名なのには飽き足らず、世間にも公的に認められ、必要とされていたとは。正直、この時ほど自分の人生と人の幸福を呪ったことは無い。
同じ立場だと思っていたのに、実際には私の何歩も先を行っていたなんて。私が欲して居たものを手に入れていたなんて。愛されていたなんて。私の理想の人生そのものだったなんて。悔しくて、憎くて、何より置いて行かれたようで、それまでと何も変わっていない筈なのに、しんどいという言葉では表現できない暗澹とした気持ちだった。
だから、この感情から解放されるために、重く伸し掛かる劣等感から逃れる為に、ついでに幼少期からの「有名になりたい」という夢を叶えるために、作家となることを夢見るようになった。夢を諦め、理想を捨てた過去に、何となく意味を持てた。
作家になって、名を馳せて、現在にも未来にも意味を持てるようになりたい。十二年ぶりに明確に持った夢は、汚らしいながらも私らしいと思えるものだった。
あれから二年が経つが、未だに夢が叶う気配は無い。それどころか就職先すら見つからず、小説に専念出来るような状況に無い。
二次創作に関しても、ジャンルの旬が過ぎたのか、はたまた界隈の多くが飽きたのかは知らないが、再び低迷するようになった。
私が作家を志すきっかけになったフォロワーは、いつの間にかジャンル移動していた。完全にはもぬけの殻には成っていないが、全く浮上しなくなるのも時間の問題。多分、余程のことが無い限りは、戻ってくる気もないのだろう。他の、今のジャンルにハマったころに仲良くしていた方々も、その多くが消えてしまった。
諸行無常、生々流転、千変万化、飛花落葉。
どんなににぎわっていたジャンルも、推しについて語り合っていた人々も、みんないずれ消えていく。ジャンル移動という概念を持たない、一度好きになった作品を愛し続ける私には、正直なところ理解出来ない。寂しいのに、悲しいのに、空虚感が凄いのに、誰もが当たり前の顔をしているから恐ろしい。だからこそ、いずれ忘れられそうで怖い。誰からも、私の文章を見て貰えなくなりそうで怖い。
自分自身ですらも、私がこの夢を持ったことを、夢の為に足掻いていることを、じきに忘れてしまうのではないかと気が気でない。
だからせめて今だけは、十二年ぶりに持った夢を忘れないようにしていたい。こうして文章に残すことで、最悪忘れても思い出せるようにしておきたい。このサイトに公開することで、私という人間が存在していたことを、誰かに知ってもらえる希望を残しておきたい。
私は綴。普段は別名義で活動している。
某ジャンルの限界オタクで、自称字書き。二次創作が好きだけど、いずれ一次創作も再開したい。現在大学四年生。劣等感払拭のためにも、自分を肯定するためにも、幼い頃からの夢を叶えるためにも、何としてでも作家に成りたい。
そして、誰でもいいから、一人でも多くの人に私を覚えていてほしい。
私は綴。
これ以上、誰にも忘れられたくない。