ドゥスン族発祥の地、ヌヌックラガン
マレーシア、ボルネオ島にあるサバ州。そのサバ州を代表するのがカザダン・ドゥスン族です。
その、ドゥスン族の聖地?本拠地?と言われるのが、このヌヌックラガンです。
コタキナバルから片道150km
三時間半ほどかけて、このヌヌックラガンに行ってきました。
ヌヌックラガンの場所は?
ラナウのカンポンベリソックという場所にあります。
公共交通機関はないので、車で行くか、grabなら1日借り切るか。
ここ、往復だといくらくらいかかるのかな、、、
金額は分かりませんが、それなりにかかると思ってください。
ちなみに、私がドライバーを頼まれたら、気が狂うくらいすっごい暇な時に、RM500以上で検討するかな。(機会があったらまた行きたいのでRM500)
そのくらいしんどかったです。
ヌヌックラガンの行き方
まずは、コタキナバルからキナバル山を目指します。
山道をひたすら登り登り、、
キナバル国立公園を通り過ぎひたすら道なりに。
ラナウの町を通り過ぎ、ポーリン温泉の近くまで行くと、道が二手分かれます。
真っ直ぐ行くとポーリン温泉。
右折するとサバティガーデン。
ちなみにキナバル国立公園からここまでで、一時間半くらいかかりますよ。
さて、ここをサバティガーデン側に曲がります。
右折してからしばらく行くとサバティガーデンに入っていく山道が見えますが、これも通り過ぎてひたすら走り続けます。
そこから先は店らしき店はどこにもありません。
村の商店みたいなのが時々あるくらいですが、ローカルのスナック(いくつか買ったけどほぼしけってました)とか水くらいですかね。
運が良ければパンが買えるかも知れません。
ちなみに日本みたいに種類いろいろ、美味しいパンではないのでご注意を。
道は急な坂ではないですが.暑さと走る距離で、車にはかなりこたえますね。
子ども3人乗せて、途中で止まっても誰もすれ違わないので、どうしようかヒヤヒヤしてました。
途中から川と並行して走る道になります。
この辺りまで来たらあと一息!
30分ちょっと、というところでしょうか。
かなり大きな川で流れも早かったですよ。
※写真参照
水の量や速さは前日の雨に左右されるので分かりませんが、大きな川でした。
橋を越えると村らしいところに出ます。
当時のナビは、こちらの小学校を指しており、学校にたどり着いてしまいました。
運良く、日曜でしたが校内の宿舎に住んでる先生が出てきてくれ、ヌヌックラガンの場所を教えてくれました。
マレー語しかできないので、要注意です。
Sekolah Kebangsaan Nunuk Ragang
さて、学校をUターンし、Y字型の道に戻ります。
右に曲がる角に小さなkedaiがありました。
ここまで山奥に来ると、外国人も珍しいようで怪訝な顔をしてました。
地図にはrestrantと書かれてますが、見落としそうなくらいのもので、レストランには見えないシロモノです。気をつけてください。
しかし、ここを曲がれば、あと一息!
5分くらい走ると、何もないところにとどん!と大きな木が現れます。
ここがヌヌックラガンです。
Kampung Balisok, 89100 Ranau, Sabah,
ヌヌックラガンには何がある?
ここは特に観光地としている訳でなはいので、marimariやKDCAみたいな施設はありません。
あるのは大きな木を塗り抜いたレプリカのみ。
だだっ広い敷地は草が生い茂っていて.少し離れたところにコンクリートで作られたスペースが。
管理人家族が施設内に住んでいるので、彼らの家もあり、冷たいドリンクは販売してくれます。
見たい旨を伝えると、1人RM5で 見てきていいよ と言われました。
いやいや、見るだけじゃわからないからガイドしてくれーと頼むと、父親がもうすぐです帰ってくるからちょっと待っててくれと。
昔のドゥスン族
説明してくれた管理人によると、
昔のドゥスン族は、山の上で大きな木の上に住んでいたそうです。
このレプリカはかつてここに本当にあった木なのだとか。
この規模の木は、もう残っていないのだそうです。中に100人くらいは入れる大きさの木ですよ。
なぜ木の上で暮らしていたか?
というと、猛獣から身を守るためなのだとか。
食料を貯めておくスペース、生活するスペース、全て木の上だったのだそう。
くる途中に出会した大きな川。
この川はヌヌックラガンのすぐ近くに繋がっており、反対側にも大きな川がありました。
川に挟まれたこの場所で、向こう岸の人と物物交換を行うには橋が必要となります。
当時は大きな枝を使い、行き来していたのだそうです。
ドゥスン族の曲で、ジャンバタン・タンパルリという曲があります。
タンパルリは地名です。ジャンバタンは橋。
ドゥスンの象徴ともいえる橋はここから繋がっていたのです!
ドゥスン族の歴史
ガイドのおじさんから聞いた話。
私の語学力では間違いもあるかも知れませんがー
木の上で暮らしていたドゥスン族ですが、
民族の間で疫病が発症し(カザダンのカルチャーセンターでも同じような話がありました)木の上から降りる人たちが出てきました。
別の場所に移り住んだ人たちは.のちにそれぞれの場所で独自の文化を作ります。
こちらの写真は、それぞれのドゥスンの男性が頭にかぶるもの。
こんなにも枝分かれしたんですね。
服と同様、被り物やアクセサリーも異なります。
チャンティックボルネオでいろんなドゥズン族がいたのは、これが理由となるのだと思います。
そして、カザダン・ドゥスンと呼ばれる、このカザダン。
町の人という意味合いを持つそうです。
山を降りて平地に移り住んだ人たちですね。
なので、カザダンのカルチャービレッジはコタキナバル郊外にあるのです。
ヌヌックラガンはなんのためにあるのか?
レプリカの木の中に入ると、写真が展示されています。
日本の明治時代の頃の写真では、まだ葉っぱを着ていました。
その頃には私のひぃおばあちゃんは生まれてたんですよ。
それから、ジャーマンである数名のボボヒザンの写真。
正面には王が座る椅子が2脚。
そこに50人ちょっもは吸われそうな椅子があります。
正確には椅子になるよう.足を下ろすところが彫られています。
ドゥスン族の紹介施設なのかと思ったら、なんと実際に今でも選挙地として使われているのだそうです!
ドゥスンの王
サバの先住民族はには、それぞれ王様がいます。
どうやって継承するのか聞いたところ、ドゥスンの総選挙が行われて、票で決まるのだそうです。
1ヶ月前に総選挙があったそうで、ヌヌックラガンに1,000人以上が集まり、選挙が行われたばかりなのだとか。
残念、、、
ま、その日は入れなかったかも知れませんね。
次の選挙はいつかと聞くと、王になったら死ぬまで次の人にはその座を譲らないのだそう。
という事で、次はいつなのかわからないらしい。
この王様の椅子に座ろうとした長男。
いや、他民族だしまずいでしょ
と思い注意すると。
「座ってみていいよ。」
「ドゥスンの女の人と結婚したら、もしかしたら次は君がそこに座れるかもよ。ハハハ」
と、けろっと言われました。
日本人でもいいんかーい?
ドゥスン語の継承
記事を書くにあたり、久しぶりにヌヌックラガンの文字をググってみたら。webサイトが見つかりました。
当時は引っ掛からなかったので、最近作られたサイトのようです。
ドゥスン語の辞書をつくる活動をしているそうです。
そう言えば、ガイドしてくれておじちゃんの子どもはマレー語と英語しか出来ないと言ってました。
ドゥスン語も教えたいんだねどね。と。
ドゥズン族はドゥスン語を話します。
というのは、おそらく遠い昔の話で、国語はマレー語になります。
学校により第一言語が何になるかは変わりますが、マレーシアでインターナショナルスクール以外に通うのであれば、マレー語とマレー史は必修科目になっていると認識しています。
なので、ドゥスン語は家の中で継承されて行きます。
もしかしたら地域によってはドゥスン語の選択授業がある学校もあるかも知れませんね。
ただ、サバには他にもたくさんの種族がおり、それぞれの種族ごとに言語をもっているのです。
ドゥスンでもドゥスン語が話せないという人もいました。30代を超えているであろう人ですが、
「私の母親はドゥスン語を話さなかったので、私たちは喋れないのよ」
一方で、10歳に満たない子どもに、家でドゥスン語を教えている人もいました。
彼女はカアマタンのビューティーコンテストに娘を出していたのです。
美人コンテスト
5月30、31日にKDCAで盛大に行われる サバ州最大のお祭り カアマタンがあります。
農耕民族なので収穫祭にあたります。
このお祭りの中で、各地域から選出された美女たちが集まり、クィーンを決めるのです。
が、見た目の美しさだけではありません。
マレー語のスピーチコンテスト、ドゥスン語のスピーチコンテスト、民族衣装コンテストなどが含まれていて、ドゥスン語が話せることが大事なポイントになってきます。
ドゥスン語が話せなくても生活には全く困りません。
でも、このコンテストがある限り、ドゥスン語は継承し続けるのかも知れませんね。
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