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無駄行マスター、推して参る。

私はいま、何をしている場合なんだろうか?

ストレスをためこみ悩んでいる人に相談されると、私はよく瞑想をおススメする。
瞑想といっても特別な道具も環境を整える必要もなく、ただ座って呼吸するだけの時間をとってみる、というものだ。
ある方は出勤前に車のなかで1-2分、目を閉じて呼吸をするのだと言っていた。自分が継続しやすいように、アレンジしているのが素敵だと思う。

さて瞑想の話をしたいわけではなく、
とある男性から
「瞑想してると、こんなことしている場合じゃない!っていう気持ちになるんです。散歩も同じで、用事もないのにただ歩くって無駄な気がしちゃうんです。」というお話をされたときのこと。
自称・社会不適合者だというその方は、とても大らかにみえるのに、瞑想や散歩をするくらいなら、もっと意味のあることをすべきなのだと思ってしまうらしい。仕事のために本を読む、とか誰かに合ってミーティングをする、とか。
彼にしか分からない、彼だけの焦りや切迫感のようなものがあるのかもしれない。
その方に限らず「目的・成果物のないことはしたくない」という方は一定数おられる。

「何か」のためだけの行動は、窮屈だ。

その方のお話は非難されるべきものではないし、目的意識が高いのは皮肉でなく素晴らしいことだと思う。
でも、「何かのための何か」は、時にとても窮屈だ。

よりよい職業に就くために、勉強して大学に行く。
キャリアアップするために資格をとる。
将来困らないために、貯金をする。
友人・恋人・人脈をつくるために、出かける。
フォロワーを増やすために、写真や動画を撮って投稿する。

得られるものは確かにある。
しかし、今ココの自分を見てみると、大学の専攻も資格も関係のない年中タイツの仕事をしながら、4月から収入は半分以下になったというのに、誰の役にも立たない駄文をしたためているわけである。
そうして私が気づいたのは、過去の私の想定した「何か」は実体のないものに過ぎなかった、ということだった。
絵に描いた餅、のような何か。

大学や資格に意味なんてないよ!なんて言いたいわけではない。
大学での学びや研究、資格を活かして充実した日々を送る方も多い。
ただ、大学進学や資格取得も、瞑想や散歩と並列に語られてもよいではないか、と思うのだ。

意味は、あったりなかったりする。
それは自分や他者を救うことも、救わないこともある。


無駄なこと名人

日常が大体無駄なことで構成されていることにかけては当社比で定評のある私だが、ここ数年は加速している。

コロナ禍スタートの頃、自粛に倦んでTOEICを受けたことがある。
仕事や海外旅行に活かそう等の目的は無く、TOEICいかなるものぞという純粋な暇潰しだった。
勉強にお金をかけたくない方なので、ブックオフで購入した2冊の問題集を解いて臨んだ。
900点以上を目標としていたのに結果は895点で、うんざりしてやめた。
公務員試験の筆記もそうだが、マーク形式のテストで問われるのは「一定時間における情報処理能力」であって、それって純粋にゲームだよな、というラーニングにはなっている。テスト自体は下手なりに楽しめた。

問題集、メルカリで売ろうかな。


果物を食べては、取り出した種をまく、というのも気に入っている無駄行(むだぎょう)の1つだ。アボカドから始めて、レモン・文旦・はっさく…
「実を収穫するの?」とよく聞かれるが、5年たっても実をつける気配はない。それでも毎年、忘れたころに発芽されると小さく震える。
ありがとう梶井さん(レモン)、菅原さん(文旦)。


実家の父とは、帰省するとどちらからともなく誘い合って散歩に出かけるのだが、家の周りのコンビニ・スーパー・ドラッグストアの酒・つまみコーナーをひとしきり眺めては、何も買わずに帰る、という恐ろしいまでに非生産的なコースがお決まりとなっている。
しかし何故か、2人ともほくほくしている。


1日ひとつ、無駄なこと。

日々をしっかりと生きておられる皆さまには、ぜひとも「1日1無駄」を試していただきたい。
疲れることも、豊かになることもあるだろう。
「何か」のための行動は、結局その枠を出ない。
無駄にはそもそも枠が無いので、大きく下回ることも、またその逆も然り。

さて私のnoteを読んだので、
今日のノルマは達成です。


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