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週刊『粗忽長屋』第弐週:『粗忽長屋』のすべて 〜粗忽長屋史〜
『粗忽長屋』という噺の歴史は古く、江戸で落語が盛り上がった、
1800年代初め(文化・文政年間)のころから口演されてきた落語だと言われています。改作を作るにあたって、その歴史を紐解いてみました。
※追記:落語研究をしている後輩に、補足事項をいただきました。修正しております。このnoteは『粗忽長屋』という噺の歴史の完全なる補完を目指しています。
●粗忽長屋史 1700年代(1712年に原話が誕生)
そもそもの原話を調べてみると、2説あることが分かりました。
①『新話笑眉』(正徳2年・1712年)
②『絵本噺山科(えほんばなしやましな)』のなかの「水の月」(寛政年間1789~1801年)
まず、①を調べたところ、
『新話笑眉』の巻之五の十二「五兵衛が安堵」という話が原話のようです。
(最終巻の最後のトリを飾る咄でした!)
![](https://assets.st-note.com/img/1731430613-8fRSIHPQoNKcnyOmDeT67tXE.png)
絵本噺山科<五兵衛が安堵>(現代語訳:著者)
「やいやい、こちの五兵衛はうちに居るか?」「今日は頭痛がするといって、二階に伏せております。」
「はて、不思議なことかな。」と言いながら五兵衛の側にやってきて「やいやい。」といって揺り起こし、
「さっき、糀町(麹町?)を通ったら、倒れた者がいて、大勢集まって見てたよ、
俺も立ち寄って顔を見たら、お前なんだよ、えらいこっちゃ(南無三宝)と思って急いでさ、
まず宿へ帰ってないかと思って、急いで帰ってきたよ。」と言った。
五兵衛がそれを聞いて、ムクッと起き、何も言わずに駆け出し、あっというまに糀町へ。
行き倒れた者を見て帰ってくると「旦那様、お気遣いありがとうございますが、私ではありませんでした。」
これは完全に『粗忽長屋』のエッセンスが感じられますね。原話といって間違い無いでしょう。
この咄のオチも”本人がまだ分かっていない”という点では秀逸です。
この時点で、すごい完成度と言えます。
よく読むと最初の旦那は、粗忽者ではなくて台詞の辻褄が合っているんですね。
そういう形も素晴らしいですね。
時代を遡ると、江戸落語の始祖、鹿野武左衛門が人前で咄をするようになったのが、1681年ごろ。そこから鹿野によって、落語ブームが起きます。(当時は座敷咄という形態)ですが、1693年に鹿野が島流しになり、落語が廃れていきます。
この後は、100年弱、小咄をまとめた”咄本”が出版されるのみの暗黒期が続きました…。
※追記(重要):落語研究者の後輩より
鹿野武左衛門の島流しについては、現在では学術的に否定されています。
この落語暗黒期の咄本の一つが1712年の①『新話笑眉』であり、
その中でもトリを飾るほどの名作が「五兵衛が安堵」だったのでしょう。
落語が衰退していく中で、後世にこの粗忽長屋のエッセンスが失われずに受け継がれていったのは奇跡のようですね。
考えてもみてください。100年という期間は、明治の文学から平成のラノベのような文学的進化をする期間です。この咄が煙のように消えてもおかしくなかったわけです。それをなんとか受け継いだ。素晴らしいことです。
補足:後輩の落語研究者から補足事項をいただきました。実は『新話笑眉』よりも同様のサゲを持つ咄は存在しています。☆『かる市頓作』(宝永5年・1708年)の「袈裟切にあぶない事」→サゲに至るまでの展開は異なっているが、下げは同様です。間を埋めるピースとしては、☆『軽口蓬莱山』(享保18年・1733年)☆『軽口夜明烏』(天明3年・1783年)にも類話がみられるそうです。
●粗忽長屋史(1800年ごろ原話が誕生)
落語の方はというと、江戸落語中興の祖、烏亭焉馬が1786年に「噺の会」を開き、再び落語ブームが始まっていきます。そういった落語復興の中、1798年に三笑亭可楽が寄席を開いていきます。
この頃に書かれたのが
②の『絵本噺山科』1巻の<水の月>(寛政年間1789~1801年)。
![](https://assets.st-note.com/img/1731430682-oHOAQxG8uUtsNBTjq3g6yEXz.png?width=1200)
<水の月>(原文)
「五兵衛、アノ横町ニ汝が倒れて死んで居るぞよ
それニ、まあその、おちつひたかほハ(原文ママ不明)なんじや」といえば
(「なんじゃ」なのか「汝や(お前だ)」なのか)
五兵衛 大キニ肝を潰し
「なんじや、おれがたおれて死んでいるか そりゃたまらぬ」
と宙を飛んで、なのところへきて見れば、聞にたがわす、こもをかぶせせ
おれ、あわてふためき、こもあけて、とつくと見
「ヤレヤレ、うれしや、おれでもなかった」
<水の月>(現代語訳:著者)
「五兵衛、あの横町にお前が倒れて死んでるぞよ、(ここのニュアンス不明)。」と聞けば、五兵衛はびっくりして「俺が倒れて死んでるか、そりゃたまらん」と宙を飛ぶように、そこに行ってみれば、聞いた通りこもが被せてある。あわててこもを開けて、とくと見ると「ヤレヤレ良かった、俺ではなかった」
70年の時を経て「五兵衛が安堵」を忠実に引き継いでます。
”五兵衛”まで引き継いでますね。”こも”という『粗忽長屋』としてのパーツも出てきました。自分が死んでいるということを受け入れる、というニュアンスのセリフも出てきています。
ただし、まだここでは江戸落語最高峰と称されるオチが確立しておりません。
(蛇足)※題名の<水の月>というのは何なのでしょうか。よくわかりませんが。6月=水無月=水の月という説もあり、単なる日付のことを言っているのでしょうか。
●粗忽長屋史(1800年ごろ)『粗忽長屋』の落語としての完成
文化・文政年間(1804年〜1830年)には各地に寄席ができ、完全に落語ブームです。
この頃は、上演に関する情報は限られており、残念ながら、台本等は現存していません。しかしながら、咄本は多く出版されていて、この時期の咄本は、安永・天明期頃のものよりも一話一話が長くなっているのが特徴です。
そういったことを考えると、このころの咄本は、口演の内容が反映されていると考えられます。ですのでこの時期の咄本に、現行の落語に似た咄が含まれていれば、当時の演出を推定することができると言っていいでしょう。
ですが…残念なことに、『粗忽長屋』に似た咄は見つかっておりません。
しかし!!
咄本以外に、このころの重要な資料が残っているそうです。
喜久亭寿暁という落語家(初代可楽の弟子・喜久亭寿楽の弟子です。つまり可楽の孫弟子です。)が残した『滑稽集』(文化4年成・1807年)というネタ帳です。おそらく現存する最古の、落語家によるネタ帳です。
ただし楽屋に置いてある根多帳ともちがい、喜久亭寿暁師匠の覚書(メモ)です。書かれているのは演題だったり、サゲだったりします。
その中に、「そゝかしい男おれでハない」というものがあります。
これはまさしく当時の『粗忽長屋』であろうと、学者の方々は推定しています。つまり、この1807年で演じられていたというのは、間違いないようです。
このサゲは前述した<水の月>と同様の形で、まだ今の完成された形にはなっていません。おそらく、この後に形成されていったものと考えられます。
残念ながら、幕末〜明治初期に関する『粗忽長屋』に関する資料はまだ見当たらないそうです。
このころから100年ほどかけて、サゲに磨きをかけられて、
『粗忽長屋』という噺が完成されていったということが、想像できます。
<水の月>から『粗忽長屋』になる重大なポイントは2点。
その2点の発祥は、いまだ謎に包まれています。
①五兵衛から、八五郎・熊五郎の粗忽者2人の設定になる。
(この”五”というのは受け継いでいるのが面白いですね。)
<水の月>でいうところの「お前が死んでいるぞ」という最初のセリフに至るために、八五郎という、積極的な登場人物を登場させることによって、
ストーリーの動機付けができているところが素晴らしいです。
八五郎が、浅草の観音様にお参りに行くというプロットが加わっています。
②オチ「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう。」
「俺が倒れて死んでいる」という最もシュールな笑いをつくる五兵衛の役は、熊五郎が受け継ぎます。
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう。」というトボけた、江戸落語の最高峰のサゲが完成されます。このサゲを作ったのは、一体誰なんでしょうね。今後の研究が待たれます。
<水の月>から100年ほどかけて『粗忽長屋』は完成されていったわけです。
追記:この章はかなり、アドバイスをいただきました。
●粗忽長屋史(1895年ごろ)『粗忽長屋』の完成
『粗忽長屋』における大事な記録としては、1882年ごろから落語家となり、
1895年に襲名した三代目柳家小さんの音源が残っています。(貴重)
これを聴いてみました。
☆粗忽長屋(三代目柳家小さん)
・無精な粗忽者とマメな粗忽者
・マメな粗忽者が浅草の観音様を参詣する
・人が大勢いて行き倒れに出くわす
・当人を連れてくるといって行っちゃう
・無精な熊を強引に連れてくる。
・熊は自分が”死んだ”とは言わない。
・オチ「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう。」
この『粗忽長屋』全てのストーリーが揃っていて、完成系といえますね。
つまり、少なくとも1895年には、今のサゲが成立していたということがはっきりと分かります。
※三代目小さんの粗忽長屋は速記も残っているそうで。『百花園』第159・160号(明治28年〈1895〉)に載る「粗忽長家」です。
さて、この後は少し研究不足で、レコードが誰かしら残っているはずなのですが、まだ聴くことができておりません。
このあとの時代は、2人の名人話者「五代目 柳家小さん」「古今亭志ん生」が登場いたします。
●粗忽長屋史(『粗忽長屋』近現代史・流派について)
さて、ここからは音源が残ってしっかりと研究できる時代。
今回は、『粗忽長屋』の改作をやるにあたって、まずとにかく聴き比べるところから始めました。そうすると『粗忽長屋』の系譜が見えてきました。
①柳家系統
まず、柳家小さん(三代目)の『粗忽長屋』は、
三代目→四代目→五代目と引き継がれ、柳家一門に引き継がれます。
三代目の『粗忽長屋』はテンポの良い掛け合いが特徴的ですが
それに対して五代目の柳家小さんは、
粗忽たち者のボケとなる決めセリフの後にしっかりと”間”を取っています。
これは、観客に考える時間を与えて、笑えるようにしてるわけですね。
『粗忽長屋』のボケセリフは少し難しいです。考えてもらう必要があります。そのため時間をおいてあげないと、ボケセリフに観客の思考がついていけないということが起きるのです。「ああそういうことか。」この間が必要なわけです。
”間”を取るとテンポは落ちるのですが、その分、置いてけぼりになる観客が少なく、笑いがついてくるのです。
この改良により『粗忽長屋』はぐんと見やすくなり、五代目柳家小さんの看板ネタとなりました。さらには、柳家一門の看板ネタとして受け継がれます。
☆柳家系小さん型
柳家小さん(三代目)、柳家小さん(五代目)、柳家小三治、橘屋三蔵、柳家花緑など
☆柳家系小さん型(その他)
林家たい平、柳家喬太郎など
☆柳家系談志型
立川談志、立川志らくなど
立川談志は、『粗忽長屋』を「主観長屋」と呼びました。
そそっかしいのではなく、八五郎が「熊が死んだということは間違いない」という主観を崩さないために、起こるストーリーという形で演じています。
(柳家だけでは無い他の伝統のクスグリも入れているところも粋で、勉強になるところです。)
②志ん生系統
多く残るのは志ん生師匠の音源、すっとぼけな粗忽者たちが
志ん生師匠の”フラ”と相まって可笑しくて笑える形になっています。
(”フラ”とは、見た目などが醸し出す雰囲気。この芸人さんだと笑っちゃうといった雰囲気を指します。)
ただし、”フラ”というものはその芸人が持ったもので、弟子がそれを継ぐということはできません。志ん生師匠だからこその落語だとも言えます。
系統としては、セリフやクスグリは、金原亭馬生(十代目)が受け継いだことがわかります。これを系統としてもいいでしょう。
☆志ん生系統志ん生型
古今亭志ん生
☆志ん生系統馬生型
金原亭馬生(十代目)、五街道雲助、桃月庵白酒
③志ん朝系統
私が学生時代に散々探したものの、
当時は発見できなかったのが志ん朝師匠の『粗忽長屋』。
最近になって聞くことができました。
これはすごい。志ん朝師匠の特有のテンポも兼ね備えながらも、
そそっかしいものたちのセリフも聴かせます。
噺の構成の順番を変えているところみても、新系統として完成させています。
※やっぱり演じた数が少なかったようです。
推測ですが、当時『粗忽長屋』といえば柳家一門が
看板ネタとしていましたので、なかなか高座にかける機会がなかったのでは
と考えられます。
☆志ん朝系統
古今亭志ん朝
④上方系統
『粗忽長屋』が上方にも広がっている。今後要検証。
☆聴き比べたもの
柳家小さん(三代目)
柳家小さん(五代目)
橘屋三蔵
立川談志
立川志らく
柳家小三治
林家たい平
柳家喬太郎
柳家花緑
古今亭志ん生
金原亭馬生(十代目)
桃月庵白酒
古今亭志ん朝
古今亭志ん輔
●参考資料:音源・資料が残っていると言われるが未聴のもの
柳家小さん(四代目?)
https://zeami.ci.sugiyama-u.ac.jp/~izuka/erito1/tuji-rakugo.html
古今亭志ん馬
三遊亭兼好
三遊亭青森
春風亭柳好(四代目)
立川志ら乃
春風亭柳橋
桂歌丸
桂雀太
笑福亭鶴瓶
桂文珍
三笑亭可楽(七代目)…速記本。
●最後に
ひとつの落語の、325年余りを見てきました。
まだまだ、分からないことばかりで、研究不足なところがあります。
だからと言ってこの噺を、
できないというわけではありません。今後もしっかり勉強いたします。